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推論的世界【10】
【10】夢体験の諸相─“推論”をめぐって(3)
前回の「夢世界の原理」につづいて、渡辺恒夫氏(『夢の現象学・入門』)による「夢世界における体験構造の変容」──「時間の変容」「他者への変身」「虚構の現実化」「自己の分裂」という「夢の原理」を構成する四つの体験フェーズ──をめぐる議論の“要約”を自己引用します[*1]。
2.夢体験の諸相(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第50章4節)
【Ⅰ】時間の変容/相[aspect]・時制[tense][*2]
Ⅰ-1.過去・未来の現在化
〇夢の世界では、すべてが現在形として起こっている。つまり、現在のできごととして「知覚」される。夢世界の時間的体験構造には、仮定法未来という次元がない。過去形も反事実的条件法も存在しない。夢世界では、過去の回想も未来の予期も、過去や未来への短い時間旅行(タイム・トラベル)になってしまう。(22~27頁、46頁、55頁)
Ⅰ-2.夢の中での過去想起─互いにつながり合った夢
〇夢の中で過去に見た別の夢を想起すると、「こんな夢を見た」という夢想起にはならず、現在の夢世界にとっての過去として想起されることがある。今見ている夢との整合性・首尾一貫性を確保するため、過去の夢が「今の状況」にとっての「現実の過去」として位置づけられるのである。
これは一見、「夢世界の原理」(夢の体験構造の一重性、夢世界に過去形は存在しない)に反するように見える。しかし、そこでは、過去想起といっても過去を「ありありと思い浮かべる」ところまでいかず、再認や知識(意味記憶)の域に留まっている。その結果、現在の夢と過去の夢とがつながり合ったのである。(54~56頁)
【Ⅱ】虚構の現実化/様相(modality)
Ⅱ-1.物語の中で生きる夢
〇夢世界では、生の現実とフィクション(非現実)の二重性を生きることはできない。文字や映像のような記号によって呼び起こされた想像は必ず現実化する。(30頁)
夢の世界では、解釈対象ともなり知覚対象ともなるような二重性を帯びた記号は存在しえない。記号は必ず透明化する。記号が意味する架空のできごとが現実に知覚され、架空の世界を現実に生きることになる。(31頁)
夢世界では反実仮想は現実化する。物語は現実化し、私はその中で生きることになる。(60頁、63頁)
Ⅱ-2.自己の交替性を生きる夢、あるいは世界の二重化
〇夢の中で進行するドラマの登場人物である私を、私自身が第三者視点で見ているというタイプの夢がある。
このような、物語を内側から生きると同時に外側から鑑賞している「自己の二重性」は、一見、夢世界の原理に抵触するように思われるが、そうではない。現実世界の意識に伴う「ドラマの登場人物に過ぎない」という虚構意識が、夢世界では欠落しているからである。
だから、二重性を生きるといっても、厳密に同時的に二重性を生きているのではなく、いわば(ホンモノの私とドラマの登場人物に扮した私との)交替性を生きている、といった方がよいかもしれない。(70-71頁)
〇あるいは、次のようにいえるかもしれない。すなわち、見られる自分がいて、それを上から見ている自分が別にいるという入れ子細工的構造がはっきりした夢にあっては、覚醒意識に特有の志向的意識の二重構造が消える代わりに、世界が二重化したのだと。(78頁)
【Ⅲ】自己の分裂/人称[person]
Ⅲ-1.自分が二人いる夢
〇夢世界の原理(「……に過ぎない」という自覚が消滅し、二重意識が一重になる)を維持する代償ででもあるかのように、世界ではなく自己が二重化=分裂する夢がある。たとえば、過去の私を現在の私が「純粋の視線」となって見下ろしている夢。(75-76頁)
〇これと違って、見る自分と見られる自分が同じ世界にいる純粋な自己分裂の夢がある。また、過去に生きた「誰か」として生きている自分を、映画でも見るように楽しむ夢がある。これらの場合でも、夢世界の原理は貫徹している。「もしも……に自分がいたならば」という反実仮想の現実化と解することができるからである。(78-80頁)
〇自分が二人いる夢には、次の四つの異なるタイプがあった。これらの夢において、なぜ夢見者である私が物語の中に完全に入り込まず、夢見者の視点が残存したのかという疑問が残る。(80-81頁)
① ドラマの登場人物である私を、私自身が第三者視点で見ている夢
② 過去の私を現在の私が「純粋の視線」となって見下ろしている夢
③ 二人の自分(見る自分と見られる自分)が同じ世界で対峙する夢
④ 過去の「誰か」の人生を自分の人生として、その物語を楽しむ夢
Ⅲ-2.分身の夢、第三者視点の夢
○自分自身の分身に出会うドッペルゲンガー体験は、自己分裂の夢の一種であり、そこから分裂した元の自分自身の視点(夢見者の視点)を消去すると、単なる第三者視点の夢になる。(101頁、105頁)
視点主体なき純粋の第三者視点の夢の存在は、私たちが日常、自分自身を「他者たちの中の一人の他者」として思い描いていることを示している。(107頁)
〇メルロ=ポンティの「上空飛行的態度」によって、自分自身を含む「他者たち」を上空から眺める架空の視点を設定し、この視点から見た世界こそが「客観的」な世界だと思い込む、その思い込みを夢で現実化・映像化したものが第三者支点の夢である。(111頁)
【Ⅳ】他者への変身/態 [voice]・法[mood]
〇「実在する他者になる」ことと「架空の誰かになる」こととは、現象学的にはまったく異なる事態である。(61頁)
実在他者への変身夢の場合、三重の意識(①その他者になったという想像、②それが想像に過ぎないという暗黙の自覚、③私の想像にかかわらずその他者が実在するという暗黙の確信)が一重化する。これに対して、虚構他者への変身夢の場合は、二重意識(①②)が一重化する。(158-159頁)
〇ところが、夢の世界では、実在他者と虚構他者の区別なく他者になることができる。これは、(他者の実在が確信できないまま「世に(隠れ)棲む」独我論者が見出されることで明らかなように)、目の前の他者が実在するという確信が絶対的に強固ではないことを示している。
だから、(現実世界のみならず)夢世界でも、実在他者と虚構他者とを問わず、変身できてしまうのである。(162-163頁)
[*1]かつて『夢の現象学・入門』に接したとき、そこに──以前読んだ『フッサール心理学宣言』ほど“直接的”なものではないが──永井(均)哲学の“影”を色濃く感じた。たとえば、三浦俊彦氏は「永井独在論」と「渡辺遍在(転生)論」を対比している[https://russell-j.com/miurat/hiruinai.htm]。私見では、渡辺氏の議論(輪廻転生をめぐる)は「実在性」(リアリティ)の世界に(のみ)かかわり、永井氏の議論(〈私〉や〈今〉をめぐる)は「現実性」(アクチュアリティ)の世界に軸足をおいている。
夢をめぐる議論に関して言えば、渡辺氏は夢世界を現実世界(実在性)が変容した「異界」(実在性)と捉えているが、永井氏は「夢」の世界(実在性)の根底もしくは外部に〈夢〉の世界(現実性)を据えている。(こうした違いがあるにもかかわらず、夢世界の体験をめぐる渡辺氏の議論は、〈夢〉の世界の“ロゴス”あるいは「はじまりの言語」(夢の言語)における“メロス”を考えるうえでとても有益である。)
ちなみに、本稿第五節で素材として取りあげた「第二性としての独在性」(ジミー・エイムズ)が、『〈魂〉に対する態度』所収の「醒めることを禁じられた夢」に言及していた。この論文のなかで永井氏は次のように書いているのだが、そこで言われる「夢」の世界とは、錯綜した言葉遣いになるが語の一般的な意味における「現実世界」や「客観世界」や「現象世界」すなわち「実在性」の世界にほかならず、また「現実の根底にある夢」「醒めることのない夢」「外部をもたない夢」の世界は「現実性」に通じている。夢(精確には〈夢〉)を「夢」として規定すること、すなわち超越論的構成。
《…夢は必ず醒めるが、現実から醒めることはできない。これは決定的な違いである。夢から醒めてみれば、「夢中」で没入していたリアリティのすべては単に「夢」、つまり荒唐無稽なフィクションにすぎない。そして、夢を「夢」として規定しうる視点は、それを「夢のような」ものとして眺める、夢の外部の視点だけなのである。夢から醒めたときにはじめて「夢」が成立するのだとすれば、現実の根底にある夢が全体として「夢」として眺められ、「夢のように」感じられることはありえない。全体として捉えられた現実は、だから、決して醒めることのない夢、夢として知られることのない、外部をもたない夢、のようなものである。》(『〈魂〉に対する態度』141頁)
[*2]各項のタイトルの後に全角スラッシュを付けて、四つの夢の体験フェーズにそれぞれ関連する(と思われる)文法カテゴリーを書き添えたのは、〈夢〉(現実性の世界における)を「夢」(実在性の世界における)として規定する“超越論的構成”において決定的な役割を果たす、あるいは“超越論的構成”の結果として生み出されるのがそれらの文法カテゴリーであると考えたから。その詳細については、いずれ「文法的世界」を主題とする考察のなかで取りあげたいと思う。