そんそん

医者。ときどき映画監督とか、落語とか。キーワード:対話、共感、コミュニティ。あと、学び、アート、銭湯、つながり。単純に人が好き。でも、恥ずかしがり屋です。

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  • そんそんの教養文庫(今日の一冊)

    一日一冊、そんそん文庫から書籍をとりあげ、その中の印象的な言葉を紹介します。哲学、社会学、文学、物理学、美学・詩学、さまざまなジャンルの本をとりあげます。

最近の記事

ウィトゲンシュタインが示した「言語の乗り越え不可能性」——ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』を読む

ピエール・アド(Pierre Hadot, 1922 - 2010)はフランスの哲学者・神学者。パリで神学教育を受け、司祭の資格を得たあと、ソルボンヌで神学・哲学・文献学を学ぶ。27歳でフランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員となり、哲学の道に進む。文献学に基づいた古代ギリシア思想や新プラトン主義の研究を専門とした。フランスで初めてウィトゲンシュタインについて論じたことでも知られる。主な著書に、『プロティノス、あるいは視線の純化』(1963)、『古代哲学とは何か』(1

    • 迷うこととネガティブ・ケイパビリティ——レベッカ・ソルニット『迷うことについて』を読む

      レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit , 1961 - )は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ在住の著作家。環境、政治、芸術など幅広いテーマを取り上げている。著書に『暗闇のなかの希望』、『災害ユートピア』、『説教したがる男たち』など。 本書『迷うことについて』はソルニットの2005年の著書"A Field Guide to Getting Lost"の翻訳である。"Getting Lost"とは、まず文字通りに人間が失われたものとなること、つま

      • 唯識論における末那識とアーラヤ識——『仏教の思想4:認識と超越〈唯識〉』より

        唯識(ゆいしき、Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、8種類の識(八識)によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。本書『仏教の思想4:認識と超越〈唯識〉』は、仏教哲学の中でもその理解が難しいとされる「唯識論」の考え方について一般向けに解説したものである。 「唯識」とは、ただ表象があるのみで、外界の存在物はないという思想である。それでは表象はどうしてあらわれるのか。そのことを説明するのが、「識

        • ルターの「万人司祭主義」の原理——ルター『キリスト教界の改善について』を読む

          マルティン・ルター(Martin Luther、1483 - 1546)は、ドイツの神学者、教授、聖職者、作曲家。聖アウグスチノ修道会に属する。1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。ルターの『キリスト者の自由』に関する過去記事も参照のこと。 本書『キリスト教界の改善について:ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』は、『95か条の論題』の3年後、1520年に発

        • ウィトゲンシュタインが示した「言語の乗り越え不可能性」——ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』を読む

        • 迷うこととネガティブ・ケイパビリティ——レベッカ・ソルニット『迷うことについて』を読む

        • 唯識論における末那識とアーラヤ識——『仏教の思想4:認識と超越〈唯識〉』より

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        • そんそんの教養文庫(今日の一冊)
          346本

        記事

          法然の第一八願と「凡夫」の思想——阿満利麿氏『法然を読む』より

          阿満利麿(あま としまろ、1939 - )は、日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授。専攻は宗教学、日本思想史。京都市生まれで、生家は西本願寺の末寺であった。1962年京都大学教育学部卒業。1962年4月にNHK入局。1987年4月明治学院大学国際学部新設に伴い国際学部教授として招聘。担当科目は「民族学(フォークロア)」、「仏教文化論」、「日本文化論」など。国際学部長、大学図書館長などを歴任した。著書は『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)など多数。 本書『法然を読む——「

          法然の第一八願と「凡夫」の思想——阿満利麿氏『法然を読む』より

          絶対他力の向こう側に至った「最後の親鸞」——吉本隆明『最後の親鸞』を読む

          吉本隆明(よしもと たかあき、1924 - 2012)は、日本の詩人、評論家。吉本隆明に関する過去記事も参照のこと(『吉本隆明と柄谷行人』、『今に生きる親鸞』、「沈黙の有意味性」)。 本書『最後の親鸞』は1981年に春秋社刊の『増補 最後の親鸞』にエッセイ一篇を加えてちくま学芸文庫から2002年に刊行されたものである。吉本は、親鸞の「最後の思想」ではなく、息づかいが聞こえるような生身の存在としての「最後の親鸞」をこの本で描き出そうとしている。その親鸞を想像してみると「かれが

          絶対他力の向こう側に至った「最後の親鸞」——吉本隆明『最後の親鸞』を読む

          「菊と刀と鍬」で考える日本人の死生観——五来重『日本人の死生観』を読む

          五来重(ごらい しげる、1908 - 1993)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。昨日の五来重の『高野聖』に関する記事も参照のこと。 多くの日本人は、宗教に対して明確な態度をもたず、日頃から宗教を強く意識するわけではないが、冠婚葬祭などがあれば相応に振る舞うし、旅先では神社仏閣にお参りをするという行為をする。そのような特定の宗教に回収されない、なんとも不明確でゆるい広がりをもった日本の宗教に光をあてたのが五来重である。 五来は、文献史学に

          「菊と刀と鍬」で考える日本人の死生観——五来重『日本人の死生観』を読む

          ヒューマニズムとしての高野聖の思想——五来重『高野聖』を読む

          五来重(ごらい しげる、1908 - 1993)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。柳田國男の京都帝国大学での集中講義に感銘を受け、従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観に基づく考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績を残した。 本書『高野聖』は1965年に出版された、高野聖(こうやひじり)に関する

          ヒューマニズムとしての高野聖の思想——五来重『高野聖』を読む

          マレビトとは何か——上野誠氏『折口信夫:魂の古代学』を読む 

          折口信夫(おりくち しのぶ、1887 - 1953)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。 本書『折口信夫:魂の古代学』は、日本文学者(万葉学者)・民俗学者の上野誠氏が解説した一冊である。その冒頭は、上記に引

          マレビトとは何か——上野誠氏『折口信夫:魂の古代学』を読む 

          人間の生きざまの問題としての水俣学——原田正純『いのちの旅——「水俣学」への奇跡』を読む

          原田正純(はらだ まさずみ、1934 - 2012) は、日本の医師。学位は医学博士。鹿児島県さつま町出身。ラ・サール高校、熊本大学医学部卒業。熊本大学医学部で水俣病を研究し、胎児性水俣病を初めて発見した。水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴えた。2012年6月11日、急性骨髄性白血病のため熊本市内の

          人間の生きざまの問題としての水俣学——原田正純『いのちの旅——「水俣学」への奇跡』を読む

          「対抗導き(コントル・コンデュイット)」としての「啓蒙」——ミシェル・フーコーの統治論

          ミシェル・フーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)は、フランスの哲学者、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家。フーコーの理論は、主に権力と知識の関係、そしてそれらが社会制度を通じた社会統制の形としてどのように使われるかを論じている。フーコーの思想は、特にコミュニケーション学、人類学、心理学、社会学、犯罪学、カルチュラル・スタディーズ、文学理論、フェミニズム、マルクス主義、批判理論などの研究者に影響を与えている。 本書『今を生きる思想 ミシェル・フ

          「対抗導き(コントル・コンデュイット)」としての「啓蒙」——ミシェル・フーコーの統治論

          相対主義を退けるためのプラトンのイデア論——『哲学史入門』古代ギリシア哲学より

          NHK出版『哲学史入門』シリーズの第一巻、古代ギリシア哲学におけるプラトンのイデア論の位置付けについて、哲学者の納富信留氏が語っている部分である。納富信留(のうとみ のぶる、1965- )氏は、日本の哲学者、西洋古典学者。東京大学大学院人文社会系研究科教授。第56代東京大学文学部長。元国際プラトン学会会長。日本学術会議会員。専門は西洋古代哲学、西洋古典学。 納富氏は、ソクラテスの「無知の知」は間違った用語であり、「不知の自覚」が正しいと語る。まず、ソクラテスは「知る」と「思

          相対主義を退けるためのプラトンのイデア論——『哲学史入門』古代ギリシア哲学より

          時間感覚とは私が私にとっての他者になること——メルロ=ポンティの時間性の現象学

          モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)は、フランスの哲学者。主に現象学の発展に尽くした。ロシュフォール生まれ。18歳のとき高等師範学校に入学し、サルトル、ボーヴォワール、レヴィ=ストロースらと知り合う。21歳のときフッサールの講演を聴講し、現象学に傾注する。以後現象学の立場から身体論を構想する。37歳のとき主著『知覚の現象学』を出版するとともに、サルトルと「レ・タン・モデルヌ(現代)」誌を発刊する。戦後は1949年に

          時間感覚とは私が私にとっての他者になること——メルロ=ポンティの時間性の現象学

          宮澤賢治の「外にありながら内にあること」——見田宗介『宮沢賢治——存在の祭りの中へ』を読む

          本書『宮沢賢治——存在の祭りの中へ』は、社会学者・見田宗介による宮沢賢治論である。 宮沢賢治の物語にはよく鉄道が出てくる。例えば『青森挽歌』という『銀河鉄道の夜』へとつながることになった小作品にも、こんな一節がある。 ここで賢治は、汽車の中に乗って窓の外を眺めているのだけれども、その窓が水族館の窓を見ているように見える、つまり外部から内部を覗いているような感覚になっている。内側にありながら同時に外部にあるという二重化された眼の位置を、何の不自然さもなく受けいれているのである

          宮澤賢治の「外にありながら内にあること」——見田宗介『宮沢賢治——存在の祭りの中へ』を読む

          68年の革命と学生たちの「二重の自由」——絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』を読む

          絓秀実(すが ひでみ、1949 - )は、日本の文芸評論家。本名は菅秀実。著書に『詩的モダニティの舞台』(論創社)、『吉本隆明の時代』(作品社)、『1968年』(ちくま新書)、『反原発の思想史』(筑摩選書)、『天皇制の隠語』(航思社)、『タイム・スリップの断崖で』(書肆子午線)など。柄谷行人・中上健次からは、1980年代後半「彼の才能を疑ったことは一回もない」と評価された。日本読書新聞編集時代、蓮實重彦に文芸批評を初めて書かせ、世に出るきっかけをつくった。 本書『革命的な、

          68年の革命と学生たちの「二重の自由」——絓秀実『革命的な、あまりに革命的な』を読む

          ウィトゲンシュタインの『哲学探究』における懐疑的パラドックスと懐疑的解決——クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読む

          ソール・アーロン・クリプキ (Saul Aaron Kripke、1940 - 2022)は、アメリカの哲学者、論理学者。ニューヨーク市立大学大学院センター教授、プリンストン大学名誉教授。ネブラスカ州オマハ生まれ。ユダヤ人。 本書『ウィトゲンシュタインのパラドックス:規則・私的言語・他人の心(Wittgenstein on Rules and Private Language)』は1982年に刊行された著書の翻訳である。この本はある講演の論考をもとに執筆されているもので、そ

          ウィトゲンシュタインの『哲学探究』における懐疑的パラドックスと懐疑的解決——クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読む