哲学の快楽──「詩を読むことの快楽」を補う
ここからの文章は「詩を読むことの快楽」の補足として書かれた。(途中からだが。)
私の「快楽」とか「享楽」とか「愉悦」とか、そういう諸概念は「人」と「狂人」のあいだを開いておく工夫であるとも言える。
「一回目というのは一回しかないし、二回目というのも一回しかないことは、一回目で起こることと二回目で起こることの内容が異なっていることを、まったく意味しない。出来事や経験の中身とは無関係に、一回、二回、三回……という反復自体が、その反復を麻痺させるような一回性をも、いっしょに成立させる。また、「流れ去る」という水の運動も、一回性とは関係がない。たとえ湖のように水が留まっていて、いつも「同じ水」がそこにあるとしても、一回目に入ることは一回限りであり、二回目に入ることも一回限りである。そういう仕方でのみ、一回目と二回目とは決定的に異なっている。」(『足の裏に影はあるか?ないか?』(朝日出版社)107頁)
これが入不二の快楽性である。直後にこう書かれている。
「このようにして、ヘラクレイトスのことば[=「同じ川に二度入ることはできない」:引用者]からは、同一性と変化だけではなく、一回性と反復というテーマも取り出せる。」(『足の裏に影はあるか?ないか?』(朝日出版社)107頁)
快楽だけではなく、いや、「快楽」を感じるためには享楽と恍惚とを往復しなくてはならないだろう。一つ目の引用が「恍惚」だとすれば、次の引用は「享楽」である。
「しかし、この「一回性」の指し示しは、成功するのだろうか。一回目というのは一回しかないし、二回目というのも一回しかないし、三回目というのも一回しかない……。ならば、一回目の一回性、二回目の一回性、三回目の一回性……のように、一回性自体が反復されてしまうではないか。反復不可能なはずの一回性が、何度も反復されてしまう。」(『足の裏に影はあるか?ないか?』(朝日出版社)108頁)
極めて形式的に言えば、私が「詩を読むことの快楽」として挙げた「反復できる唯一性の感覚がある」というのは入不二のこのような往復のことを指している。いや、むしろ「同一性と変化」から「一回性と反復」へとジャンプする、その跳躍力こそが「唯一性」を「反復できる」もの、「感覚」にするのである。身体。そのジャンプは身体を見つけさせるのである。
ここで言ったような「享楽」と「恍惚」の往復という意味での「快楽」を私は永井均に感じたことはない。永井均に私が見ている「快楽」は私自身の構造化癖によるものだと思われる。それを取り除くとすれば、永井均はその往復が何によって成り立つのかを見極めようとしているように見える。そして永井均はそれが「生の衝動」と「死の衝動」の均衡によって成り立つと言っているように見える。
「当然のことながら、制度として外在する価値に自己を適合させるよりも、自己の創出する価値が人に承認され、それを軸として「われわれ」が形成されることの方が"快感"であろう。その極限状態、つまり、『私』と「われわれ」、自己と他者、内と外といった区別がもはや無意味となるような『私』の遍在状態、それこそが"自己利益"の究極目標であり、最終形態なのである。そのような状態に"自分の力"で近づこうとする人の欲求、これを「生の衝動」と名づけよう。」(『<私>のメタフィジックス』(勁草書房) 179-180頁。)
ここでの「『私』」についてはとりあえず「いまだ知られざる価値へ向けて、あるいはそれを作り出すことに向けて、おのれを作品化する一つの作品」としての「私」であると考えよう(『<私>のメタフィジックス』(勁草書房) 179頁。)。この「生の衝動」に対して「死の衝動」は次のようなものである。
「<私>とは、存在を語りうる場所にはないあるものであった。そして、存在を語りうる場所と意味および価値のはたらく場所とは重なっている。このとき、<死の衝動>は存在を語りうる("ある"と"言える")すべてのものに対する絶対的な否定の衝動として<存在>しているのだ」『<私>のメタフィジックス』(勁草書房)180頁)
この詳細について考えるとなれば、もっとややこしいことをしなくてはならない。が、今回の目的は「哲学の快楽」をなんとなくそれとして示すことにある、いや、そういうことにしたので今回はこれくらいで勘弁してもらおう。
ちなみに私は「一回性と反復」をいつも「同一性と変化」にしているような気がする。それが私の「快楽」なのである。ただ、それがちゃんと「快楽」であるのは「恍惚」だけではなく「享楽」もそこに見出せるからである。おそらく。「生の衝動」だけではなく「死の衝動」もそこに見出せるからである。
なんというか、よくわからなくなってきた。往復と均衡、私はこの二つの「快楽」の形とは違う、そんな「快楽」を持っている。「哲学の快楽」を。
それを知るヒントはおそらく私の構造化癖が永井によって触発されるのに対して入不二によっては触発されないことにある。議論としては入不二のほうが構造的ではあると思うのだが。
何か、何かに気づきそうなのだが。明日推敲しよう。
お風呂に入った。推敲はしないが、一つ軌道修正をしておこう。それは、ここまでの議論は「人」という視点である程度は整理できるのではないか、という軌道修正である。永井均の議論は基本的に「私」と「人」の関係を問うものである。「人」ならざるものとしての「私」がどうやって「人」になるのか、そしてその「なる」は語りうるのか、が永井均の探究を駆動している。とりあえずそのように言ってみよう。それに対して入不二にはそういう側面は希薄である。彼の探究はもっと「なる」こと自体、そのシステム、循環を問うものである。いま手元に永井の『世界の独在論的存在構造』(春秋社)も入不二の『現実性の問題』(筑摩書房)もないので確認できないのだが、永井には西田幾多郎に言及した著作があり、入不二には九鬼周造に言及した著作があることからも、ここでの違いは理解できるかもしれない。とにかく、二人は多様に対比しうるが、極論を言えば、入不二の探究において「人」はいてもいなくてもいいのに対して永井のものはそうではない。
構造化癖に話を戻すと、永井のものがそれを触発するのは永井の議論がそもそも議論不可能性を煽るものだからである。それは構造化しきれない構造という、唆られるシステム自体を語り尽くそうとするものなのである。それは「同一性と変化」で言えば、「変化のためには変化しないものが必要」ということであり、「変化しないもの」としての「同一性」こそが目指されているのである。だからこそ、その「同一性」を構造化によって示したくなるのである。示されたくなるのである。示し尽くしたくなるのである。示し尽くされたくなるのである。しかし、入不二のものにはそういうところがない。
なんというか、入不二のものには吸い込まれるところがないのである。プツンと始まり、プツンと始まり、という連続。そしてその連続性すら問いに付され、そこに連続が見られるのはなぜか、それが明かされていく。託宣チックなのである。その意味でパルメニデスの仕方に近いのかもしれない。提示の仕方が。
お風呂で思っていたのはこんなことではない。真ん中に現実性があり、それを重み付けるものとしての「私」。入不二のものは何によって重み付けるのだろうか。現実を。いや、もしかすると「重み付ける」ことを避けているのかもしれない。そこにある「人」感を忌避して。
「人」と「狂人」のあいだには吸い込まれるところがある。それはときに「包摂と排除」として語られ、それはときに「道徳と倫理」として語られる。しかし、「吸い込まれるところがある」ことがわかるためには「吸い込まれるところがない」ことがわからなくてはならない。ただ循環し、経巡る。入不二はそれを教えてくれるのだ。開けるとか開けないとかではなく、もうすでに開いていて、もうすでに閉まっている。呼吸のようなもの。
さて、「唯一性」とはなんなのでしょうか。そんなものはないのかもしれません。哲学はそう言い切ろうとしていて、詩はそう言い切れないようにしているのかもしれません。永井と入不二の詩性は「言い切れないようにしている」ことの二つの形でしょう。一つは議論の不可能性によって、もう一つは議論の必然性によって。
うまく書けません。うまく書けません。明日の私が推敲してもそうでしょう。おそらく。ただ、私は変化します。ただの継続性としての私が存在することを願って、今日は閉じましょう。
推敲後記
推敲しました。かなり読みにくかったのですが、まあ、それはいい、と思って直しませんでした。最小限の修正に留めました。
さて、内容について言えば、「永井/入不二」という「哲学の快楽」における対比は些か入不二寄りになってしまいますが(そもそもこの文章は入不二の文章を読んでいるときにその日の朝に投稿した文章がふっと現れてきたところから始まっているので許していただきましょう。)「同一性と変化/一回性と反復」という対比を重ねることで爽やかに理解できると思います。もちろん、何かが始まることはAからBへという移動を含むと思いますので、それが「一回性と反復→同一性と変化/同一性と変化→一回性と反復」という形になることを促進していて、それで話がややこしくなっているのだと思います。
それで、私としては一つ、指摘しておきたいことがあります。それは、この文章が「詩を読むことの快楽」を補うものであるのにも関わらず「哲学の快楽」の話ばかりしていて、一向に「哲学を読むことの快楽」という話をしていないということです。それがおそらく「詩を読むことの快楽」において「詩/哲学」という対比に被せられた「密やか/あからさま」という対比のことを語れなくしているのだと思います。主要な対比であるにもかかわらず。
私は「詩を読むことの快楽」のなかで「哲学と詩は闘いつつ、しかしやはり仲間なのである。「これについては闘わねばならない!」と真面目になるところが、同じなのである。」と書いている。これについては本当にそうだと思っている。真理であると思っている。ただ、「これについて闘わねばならない!」における「これ」について「哲学」は「現実性」であると考えていて「詩」は「唯一性」であると考えていると私は思う。その意味で「哲学と詩」は「闘い」を続けているのである。しかし、それが続いているのは「現実性」と「唯一性」に似通うところがあると、そしてもしかすると同じところがあると信じているからなのである。
私は哲学も詩も好きである。哲学を読むことも詩を読むことも大好きである。それをあらためて実感した。やいのやいの言い合いながら、ちゃんと「やいのやいの言い合い」をするということ自体は守る、その一組が愛おしいのである。
推敲後記2
この文章は推敲してから投稿するまで時間が空いた。なのでもう一回読んでしまった。そして推敲するモードになってしまった。いや、コメントするモードと言えばいいだろうか。その箇所は残したが、私がまた読み返すときのために書き残しておきたい。
私は「入不二/永井」を「往復/均衡」というイメージで対比している。しかし、私は、あくまでいまの私は「入不二」はむしろ極限で折り返す、端的に言えば「切り返し」というイメージのほうが強い。「往復」がないわけではないが、それは二つの「切り返し」による「往復」なのである。
この文章は揺れている。しかし私はそれを残そうと思う。そしてそれには関係がないことかもしれないが、最後の「私は哲学も詩も好きである。哲学を読むことも詩を読むことも大好きである。それをあらためて実感した。やいのやいの言い合いながら、ちゃんと「やいのやいの言い合い」をするということ自体は守る、その一組が愛おしいのである。」というパッセージを読んだとき、私はなんだか泣きそうになった。なんだか、泣きそうになった。
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