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推論的世界【4】

【4】高次の推論─“論理”をめぐって(3)

 前節の最後に、異なるレベルに属する事象間に「同型性」を見いだす論理、といった趣旨のことを書きました。その論理のはたらきの結果である「同型性」あるいは「構造的同型性」に関連して、永井均の議論をもう一つ援用します、というか、今回は(今回も)永井氏の議論に全面的に寄りかかります。

 その3.永井均他『〈私〉の哲学 をアップデートする』

 永井氏が執筆した序章「問題の基本構造の解説」に、「これは決して伝わらない問題なのではあるが、決して伝わらないというそのことを含めて、その構造そのものを伝えることは可能なのだ」(9頁)という文章が出てくる。
 ここで言われる「問題」とは、「世界のたくさんの人間の中に私であるという特殊なありかたをした人間が存在しているとはどういうことなのか」といったもの、すなわち独在的存在としての〈私〉をめぐるもので、それがなぜ「伝わらない」かというと、この問題は「‘だれでも’(その人にとっては)そうである」という仕方でもつことだけはできないからである。
 つまり、そのような一般的・客観的な問題としてではなく、「自分だけが唯一例外的なそのことの‘現実的’実例でなければならず、たとえだれもが自分だけが唯一例外的な現実的実例であると思うのだとしても、さらに自分だけが‘そのこと’の唯一例外的な‘現実的’実例でなければならない」(10頁)という仕方でもたなければならないのである。
 では、そのような「伝わらない問題」について、「伝わらないというそのことを含めて、その構造そのものを伝えること」が、いかにして可能なのか。
 
《一般構造を超えた特殊事実の存在を‘そういう’一般構造の存在としてまずは伝え、伝わった人々がそれをふたたび一般構造を超えた特殊事実の存在に戻して捉える、ということができるのである。その場合でも、本来抽象化できない(むしろその事実こそが本質であるはずの)問題を抽象化して伝達しているとはいえるのだが、ここでは逆にむしろ、それなのにこの抽象化(による伝達)が‘可能である’ということにこそ哲学的な関心が向けられなければならないはずだ。なぜそんなことが可能なのか、なぜそれが可能な構造をしているのか、その理由を知ることはたとえできなくても、その構造そのものをより深く理解することはできるはずである。》(『〈私〉の哲学 をアップデートする』9-10頁)

 たとえば、次の図を使って「完全に客観的に」説明することができる。「世界には●とか■とか▲とか▼とか◆とか……色々な人がいますが、そういう(図形の違いで表現されるような)属性の違いとは別に、一人だけ(白抜きで表現されるような)あり方そのものが他の人たちとはまったく違う人がいますよね」と(14-15頁)。

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 │ … ● ■ ▲ ▽ ◆ … │
 └───────────────┘

 この図を使って「問題」を説明するにあたって大事なことは、「▽自身が発話者であってはならない」ということである。「それはあくまでも、その図を使って図の外から説明され、図の外から理解される必要がある」し、「問題の伝達のためには、発話者自身がどれかであってはならない」のである。(15頁)

《とはいえ、これはあくまでも説明とその理解という場面においては、ということであって、問題の意味が伝達された後では、使われたこの梯子は捨て去られねばならない(正確にいえば、問題の意味が伝わった際には、使われたこの梯子はじつはすでに捨て去られている)。梯子を捨て去るとは、この図によって一般的に(すなわちだれによっても)理解されるようなことは、端的な事実に反しているという意味であって、この▽とはじつは「(他の誰でもなく)‘この私’のことなのだ」と悟るということである。
 ここには、禅的と言っても、あるいはまたキェルケゴール的と言ってもよいような、独特の実存論的な飛躍が介在している。》(『〈私〉の哲学 をアップデートする』15-16頁)

 ──他の誰でもない、唯一例外的な現実的実例である「この私」の実存(現実存在)という端的な事実。この「伝わらない問題」をめぐる「伝達」と「理解」(悟り、禅的あるいはキェルケゴール的な実存論的飛躍)の両側面を、私は、一連の「(高次の)推論」の過程と捉え、それらを総じて「伝導」の名で呼びたいと考えています。そして、そのようなプロセスが展開されるフィールドのことを「伝導体」と呼びたいと[*]。

[*]きわめて大雑把な物言いになるが、言語(あるいは言語による語り)は伝導体である。少なくともその雛型である。たとえば『存在と時間──哲学探究1』第10章で、ヘーゲル『精神現象学』全体の出発点となる「感覚的確実性──〈これ〉と〈言おうとすること〉」を取りあげた際、永井均氏は次のように括っている。

《…彼[ヘーゲル]が「言えない」と言っているそれ[一般化された地平の上に立った個別者ではなく、原初の、単なる現実性そのものとしての、対比なき‘これ’]は、ある意味ではまた言えてもいる…。言おうとしていることは言えていないのだ、と彼が言うとき、言おうとしていることと実際に言っていることの差異が‘言われている’からだ。ということはつまり、彼の議論が伝わるかぎり、言えないはずの言おうとしていることもまた言われてしまっていることになる。
 …まさにそのことのうちに、彼がそこで言おうとしていることそのものが‘示されて’いる。言えないはずの言おうとしていることも、このように‘言われる’ほかはないのだ、ということが。
 しかしそれは彼が言っていることではなく、その語りにおいて示されることである。つまり、彼が言おうとしていることはやはり言えていない。という意味ではやはり、言えないことが‘在る’ことになる。…言えなかったことは、‘ただ在る’だけで、それが‘何であるか’はまったく言えない。いやむしろ、ただ在るだけで何であるかは‘ない’とみなされるべきだろう。だから、それはたしかに最も「貧しい」ものではある。だが、その貧しさは何かであること(本質)の貧しさにすぎず、けっしてともあれ在ること(実存)の貧しさではない。》(『存在と時間』174-175頁)

 私は後に、伝導体を合成する四つの推論様式のうち、帰納と演繹を「本質」(実在性)の見地から、洞察と生産を「実存」(現実性)の見地からそれぞれ考察する考えである。

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