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仮想世界にとって「今」とは何か。

仮想世界にとって「今」とは何か。AIたちが暮らす完全な仮想世界(コンピュータやインターネット上に構築された、現実世界とは異なるデジタル空間)があったとして、その中における「今」とはどういうものだろう。また、この現実世界との関係はどういうものだろう。ある時、完全な仮想世界がコンピュータ上に立ち上げられたとする。そのスタート時刻と正確な年月日がその世界の起源ゼロ時点になるだろう。しかしその世界内での時間の進み方は、我々が普段住むこの現実世界と必ずしもつねに同期している必要はない。

    • 「親ガチャ」について

      青山拓央先生が著書『哲学の問い』(ちくま新書)を基に話されたオンライン講義で、「親ガチャ」についての話が面白かった。 永井均先生の「山括弧塾」での講義だったので永井先生も参加され、 「親ガチャ」は結局は「自分ガチャ」なのではないかと指摘されたのもなるほどと思った。 「自分ガチャ」はまた、「世界ガチャ」とも言えると。 「世界ガチャ」は「現実ガチャ」(無数の可能世界があるとして、現実にはこれだった)とも言える。 さらには、「今ガチャ」(膨大な時間の中で、なぜか今が今である

      • 「敗者」とワンセットの「勝者」は世界に価値をプラスしているか。

        スポーツ観戦が好きなので、よく目にするのは「勝者」を讃える記事や言説である。 大きな大会があるとそればっかりが連日メディアに溢れる。 結果、世の中に何か新しいプラスの価値が加わったように見える。 しかしスポーツは基本的に勝負事であるから、1対1の勝負の場合、勝者が生まれれば同時に敗者が生まれる。 世界全体を俯瞰すれば、つねに勝者と同数の敗者がいるわけなので、実はプラマイゼロなのではないか。 レースという仕立ての競技の場合は、1位に特別な重みを置くので、一人の勝者と残りの敗

        • 並行世界を生きることが出来ない理由

          並行世界があったとして、そこに行って帰って来たとしても、何度か行き来して複数回なぞったとしても、本人視点からすると、やはりそれは「一本道」のひとつの世界なのではないか。 つまり、実際にそういう世界がありそこに行けると分かった時点で、この世界が「その〈並行世界〉も含んだ世界」というふうに書き換えられ、単に「世界を生きた」に過ぎないことになる。 というわけで、並行世界を生きるということは「原理的に」不可能である。 屁理屈のようだが、定義としてそうとしか言いようがない。 そうい

          魔法に満ちた世界の可能性

          この世界がこの世界よりも高次元の世界に住む誰かによるシミュレーションである可能性は、そうでない可能性より高いという話がある。 ちょっと高いどころの話ではなくて、確率でいえばほぼ間違いなくそうだと考えた方がいい、というレベルで高いのだという。 細かい理屈は忘れたが、もしその説が正しいのだとすると、この世界を作った誰かのいるその世界もまた同様に、さらに高次元の世界の誰かによるシミュレーションである確率が充分に高いと考えられるだろう。 いわゆる無限後退だが、この無限の彼方には

          魔法に満ちた世界の可能性

          スポーツにおける「◯◯別」について

          スポーツ競技における「男女別」の公正さが議論の的になっている。 「男女別」自体に疑いはなく、絶対必要で、そこにアンフェアな越境が行われているのではないかという点が問題になっているようだ。 そもそもスポーツは、人間を色々な基準で「区別」してから行うものであり、そのあとは順位や勝敗で「序列」をつけるものである。 なので、誰もが差別なく平等に物事が営まれるべきという思想が主流になりつつある世の中とは、じつは真反対を行っているのがスポーツだと言えるかもしれない。 スポーツの世界

          スポーツにおける「◯◯別」について

          この世界は漫画か

          トランプ大統領候補暗殺未遂事件の犯人クルックスが、と書き出した時点でもうすでにあからさまな「作り物っぽさ」が感じられる。 娯楽ならこれくらいのドラマチックさがなきゃ、と誰かが考えて書いたっぽさがすごいのだ。 しかし、それを言うならそのレベルの出来事は過去何年も立て続けに起こっているではないか? 今回度々引き合いに出される安倍晋三暗殺事件もその類いだし、大谷翔平と水原一平事件なども本当に起きたのかいまだに信じがたい。 でも現実に大谷はあのつるっとした顔でホームランを打ち続

          この世界は漫画か

          異世界転生ものについて考える

          転生ものって、転生した本人の意識があたらしい身体の中で目覚めて、ああこれが俺だ、と思うのは勝手だが、その体にそれまで入っていた意識はどこへ行ってしまうのだろうか。 意識の先住民というか。 それは次のどれかだろうか。  ① 最初からそんなものはなく空っぽ(哲学的ゾンビ状態)だった。  ② 転生した瞬間から世界が丸ごと出来たので問題なし。  ③ 追い出された意識はさっきまで自分がいた身体と入れ替わっている。  ④ 追い出された意識はトコロテン式にどこか他の世界に転生している

          異世界転生ものについて考える

          大谷だけは大谷のいない世界に住んでいる。

          「世界中に数多いる人間の中で、たった一人だけ他人とはとてつもなく違うありようをしている人間がいる。 この人間についてだけ、実際に痛みを感じるし、内側から思い通りに動かせる(気がする)。 そしてそれが、他の誰でもなく〈この人間〉であることに理由はないし、またはそもそも誰かでなくてはならなかった理由もない。そのことはさらに不思議だ。」 以上は永井均の哲学の本に繰り返し書いてあることで、全くその通りだと思う。 それはそれとして。 じつは自分を除く世界のすべての人々は、 〈〈こ

          大谷だけは大谷のいない世界に住んでいる。

          「無限スクロールバー」のある世界

          「無限スクロールバー」のある世界 ある動画データが保存されている。 再生ボタンを押すと一定の速度で動いて見える。 スクロールバーを前後どちらかに動かして、任意の時点に移動することも自由にできる。 さてもし、このスクロールバーが、一方向ではなく「無限の方向」にずらせる仕様になっていたとしたら? われわれの普段の感覚としては、全瞬間において、分岐などというものはないと仮定して生きている。要するに、次の瞬間というものは、たった一種類だと考えている。しかし本当にそうだろうか

          「無限スクロールバー」のある世界

          大みそかだよ!ドラえもん_リアルタイム俳句祭り

          絵コンテに懐しき名や晦日ドラ 秋色のいい表情ののび太かな あたたかやロボットに出すバイト代 未来にも犯罪者いて冴返る 未来では自分の顔で福笑い 年の瀬に「野原せまし」が気にかかる

          大みそかだよ!ドラえもん_リアルタイム俳句祭り

          大みそかだよ!ドラえもん俳句祭り

          霜の夜やドラえもんにも都合あり 焼き芋や思い切り弾くバイオリン 闇汁にやめてよ動物ビスケット 枠だけのドア置き去りや冬西日 この頃はサンタ信じるのび太かな ジャイアンを素手で倒せし春の夢 ロボットも鼻水すする大晦日 手袋は靴下でいい?ドラえもん 年玉やドラえもんにも同額を 年玉や二人で作るプラモデル これはほんのどら焼き代だよ取っといて(スネ夫) 松過ぎのカバーの取れた「ドラえもん」 もうないやアイスを買った角の店 土管から知らぬおじさん冬休み の

          大みそかだよ!ドラえもん俳句祭り

          芸名が季語の(季語を含む)芸人

          千鳥 かまいたち たんぽぽ もも ハリセンボン 錦鯉 くらげ バナナマン ロングコートダディ からし蓮根 蛙亭 かもめんたる 椿鬼奴 滝音

          芸名が季語の(季語を含む)芸人

          20歳の人は人生の75%以上を生き了えている。

          大人になってからの自分の体感時間は、いまも年々加速度的に速くなっている。 なので可能な限り長生きしたとしても、人生平均値に対しての3分の1くらいの量にしかならないのではという気がする。 逆に物心ついてから学生時代までの自分には、少なくとも全人生を平均した目盛りの3倍くらいの密度の体感時間があった気がする。 時間が3倍ゆっくり流れていたと言い換えてもいい。 このことを大雑把に計算してみる。人は20歳までの間に、じつは実感としては60年分を体験している。逆に、その後の人生が平

          20歳の人は人生の75%以上を生き了えている。

          桑原三郎句集『だんだん』より

          好きな句が多い〜。 特に印象に残った句を抜き書きします。 * 滅多打つ釘の頭や天高し 弟よ寒夕焼がまだ消えぬ レコードに一本の溝敗戦日 敬老の日の翌日のご老人 指組んで指先余る秋の風 草虱妹の手の邪険なる 秋風や木馬の芯に強き発条 青空の真ん中が濃し芹の花 餡パンの中の隙間やさくらさくら 雁やひとりの家に酒や塩 黙祷の後のぼんやり蟬しぐれ 新宿が見える高きに登りけり 大根の首ほの暗き野道かな 鳥雲に電柱のなき街を過ぎ 裏道に抜けて帰りぬ年の市 雷雲の周りの空の青さかな 残

          桑原三郎句集『だんだん』より

          「名前」というものはいつからあるか

          固有名詞としての名前に限らずおよそ「名前」というものはいつ誕生したのだろうかと考えてみる。 人間が誕生してからだというのが普通の考え方だろうけど、そうであろうか、というのがこの度の思い付きの主題である。 ノーベル賞で話題のカタリン・カリコという愛嬌のある名前の化学者が基礎を築いたという、m RNA(メッセンジャーRNA)について考えていたら、このRNAとかDNAというものにある、特定の塩基配列とは、タンパク質の「名前」なのではないか、だとすると、「名前」は人間どころか、生

          「名前」というものはいつからあるか