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#エッセイ
暮夜に野暮と言われた気になった公園にて。
久しぶりに公園の前を何も意図せずに通った。決して大きくはない公園だが、人を寄せ付ける何かがあるような公園だ。いつもは小さな子ども達や、井戸端会議のキレイなお母さま方で賑わっている公園なので、当然その時間を私はよく意図して通っている。
その日のその時間は、夕暮れ時を黄昏時と言い換えたくなるような誰もいない公園だった。
私は、誰もいない公園に一人で寄りたくなった。寄ってみたくなった。進める足は思い
ファッションショーに相応しい私は東コレに行った。
先月の中旬位だったろうか。私の元にメッセージが届いた。それはファッションショーへの誘いだった。
私ほどのオサレになると度々ファッションショーに呼ばれることはあるが、その誘いは大関からだった。
どれくらい前の話だったか記憶が定かではないがファッションブランドを立ち上げる話を聞いていたことを思い出してきていた。
私が「大関」と呼んでいるのは大相撲元大関の六代目小錦八十吉のことである。私と大関には
noteのオススメ機能。休刊した本の復刊を望むように。
noteを始めてから
記事の『オススメ』が
noteの小さな喜びでした。
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『オススメ』し放題。
『オススメ』をすると、記事の下に
アイコンが表示されるのが
なんだか楽しくて。
オススメ機能を知ったのは
はじめてサポートを
いただいたときでした。
いまでも忘れられません。
そんなオススメ機能が、
2024年7月に廃止になって
悲しいです。
僕は3ヶ月に一度全てを水に流し、そのホコリを示す。
3月、6月、9月、12月。
視界の片隅で赤いランプが点滅している。この豪邸に住みはじめて7年も経過すると、僕の軀もその体内時計の正確さを増してきて、そろそろ点滅するだろお前?と見上げる回数が多くなる。
僕はこの家と同期している気分になる。
一体どうしてこんなにも正確に刻めるのだろうか。3ヶ月で変わらずに赤い点滅をする。3年目を越えたくらいだろうか。むしろ僕の方から点滅を待ち望んでいる自分を発
藤原華さんという風。
藤原華さんの記事は風のようだなあ!といつも思います。
そよ風というより、もっとはっきり吹く風です。
とくに、こちらの記事を読んだときには、台風並みの大風が、ぶわああっ!と、パソコンの画面から舞いあがるように吹きつけました。
読みながら、その風に飛ばされそうになったので、しっかり足を踏ん張りました。
そのまま、足を根っこにして、一本の木になって。
わたしは記事を読みました。
台風のような大風が、
もしも、野原に花まるが咲いてたら。【不登校って、なにか詩ら?】
noteに投稿を続けていると、思いがあっという間に言葉になって、そのまま記事になるときと、書いても書いてもまとまらず、何万字も下書きに言葉を連ねてようやく形になるときとがあります。
どちらがいいわけでもなく、どちらに、より愛着があるわけでもありません。
記事はただ、それにふさわしい方法で、ある日、ちゃんと生まれてきます。
書いても書いても思うようにまとまらないと、焦る氣持ちばかりが募ってしまう…
割と身近なんすよ。の話
今日はね、いつもとちょっと毛色が違う話してもいいですか。
シマななこが真面目な話するっていったら熱帯低気圧爆誕しますかね。
ちょっと照れくさいというか、どうにも恥ずかしいというか・・いつもの自分が選ばない題材を選ぶ時って。なのでちょっとはすっぱ?斜に構えたていで話しますけど・・大目にみていただけたら嬉しいです。
(写真は月桃=ゲットウの花です。梅雨時期の島で咲きます。慰霊の日近辺には散ります
「書く」。「書かない」。
「てがみさま」というお話を書いたことがあります。
手紙の神様。てがみさま。
大切に書いた手紙には神様が宿ることを──短いお話にしました。
封筒を開け、折りたたまれた便箋をひらくと、おかっぱ髪の女の子の神様が、ちょこんとそこに現れる。それが、てがみさま。
そのお話を書いたのは、もうずいぶん前のことです。
誰かに手紙を届けるのが、いまよりずっと身近な時代でしたから、ちょこちょこと、お礼状など書く習慣