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資本主義を生きるということ 【適応障害から得た学び】

資本主義ってなんだろう


ある日、たまたま表参道を散歩している時、20代前半の男性の話し声が耳に入りました。

「あのお店、入る勇気ないから一緒に来てよ」

私たちはどうしてそこまでして、物を買いたいのでしょうか。
自分の身の丈に合わないとうすうす気づきながらも、物やサービス、ときには人に、手を伸ばしてしまうのは何故なのでしょうか。

そういう私も買い物依存になりがちで、部屋には物があふれ整理ができません。でも最近、そんな自分のなかで解決策が見えてきました。長いですが、お付き合いくださると嬉しいです。

山を登るということ


私は、資本主義をまさしく「競争社会」と捉えていました。
それは山の頂点にたどり着いた者が勝ち、というゲームです。

私たちが山を登る理由には2つあります。

①登るのが楽しいから
②降りるのが怖いから

たとえば億万長者を目指す人のなかには、
①お金が無くても楽しめることを知っている人
②お金を使う幸せしか知らない人
がいるでしょう。

前者は、まあ苦しくなればいつでも戻れるしな、という前提があるから、山登りはお出かけのようなもの。楽しそうだからもっと登ってみよう、それはあくまで興味本位です。

後者は、もはや逃避のようなもの。
地上には恐ろしいゾンビがいて、逃げるように頂上を目指しています。いつか足を踏み外すのではないかという恐れを抱えながら、ひたすら走ります。

私が上昇を目指すとき、多くは②の恐怖がモチベーションになっていました。不安を原動力にして走る。それ自体が悪いことではないけれど、何を不安に思っているのか、敵を知っておくことは大切だ、ふとそう思いました。

「何を当たり前なこと」と思う方もいるでしょう。
それでも、こうやって一歩一歩、世の中を歩いていく方法を学んでいかなければ上を向けない人もいるのです。
そんな人のために、過去の自分のために、自分が傷を負って学んだことを書いていきます。

何が怖いのだろう


先ほどの山登りの例で例えるなら、脅威は地上にあります。
地上、つまり普段私がいる場所です。ありのままの自分。そう捉えてもいいかもしれない。

私は「ありのままの自分」と向き合うことが怖かった

例えば物欲

私は学生時代、文房具を買うのが好きでした。
まだ使い切っていないのに、すぐにノートを買い、ペンを買い、筆箱を買いました。なぜでしょうか。
きっとそれは、新しい文房具を買えば、束の間、勉強のやる気が出るからです。しかし、勉強のやる気を保てない自分、ノートを綺麗にまとめられない自分、道具を大切に使えない自分から、とにかく目をそらしていたのだと思います。

例えば汚部屋

そうして部屋がたくさんの物であふれると、とうぜん部屋は乱れます。
そんな乱れた部屋では集中ができないから、「勉強をする」という口実をつくりカフェに行きます。片付けができない自分と向きあうきっかけを遠ざけていました。

ありのままの自分と向き合うことはとても怖い。痛い。
SNSを見れば、理想ばかりが高くなる。
理想が高くなればなるほど、どうしても自分自身を見るのが怖くなりました。

足がすくんでしまう


そうして、地上の自分から目をそらし続け、高く高く山を登ったころ、足がすくんでいることに気付きました。
どれだけ高く登っても、不安は消えない。もっともっと上に登る。まだ怖い。ふと下を見る。その高さに足がすくんでしまう。
地上にある脅威がいつ自分を襲ってくるのだろうか、怖くて怖くて登り続けました。もはや脅威の正体は何なのか、どれくらいあるのかも分からないのに、「高く登れば不安は消えるはずだ」と信じて疑わなかった。息切れ寸前のそのとき、自分の周りには楽しそうに登山をする観光客がいて、目を疑いました。「どうしてみんな余裕そうなんだろう」と。

「自分と向き合う」ということは


暴力がいつも目に見える形をとるとは限らないし、
傷口が常に血を流すとは限らないのだ。

『1Q84 -2』村上春樹

そうであるならば、どこが痛みの原因であるのか、自分で把握しておくことが大切です。見て見ぬふりをすれば傷口は拡大するばかりだし、言語化できなければ誰も気づいてくれません。

それでも、むやみに傷をいじくると傷が拡大することがあります。そこには技術が必要です。時には一人きりで立ち向かうべき問題ではないときもあるでしょう。傷を見つけられない人を、傷の処置の仕方が分からない人を「自己責任でしょ」と見捨ててしまうのはあまりにも冷たいではないでしょうか。

しかし、傷口との向き合い方、自分自身との向き合い方、現実との折り合いのつけ方を、教わる機会はほとんどなく、私たちは上昇する方法だけを教えられてきました。

それでも楽しく山を登れる未来があるなら、私だっていつかそうなりたい。
そう思ったから本気で考えました。どうしたらみんなみたいに、楽しく登山ができるだろうか、と。

そうしてたどり着いた心得を以下に記します。
過去の自分へ、似たような思いを抱えて走り続けるあなたへ。

心得1.山に登る前の下準備


必要な下準備。
それは、「帰ってこられる場所をつくること」です。
安全地帯をつくることです。

私は、両親が離婚し、どちらも再婚しているので、実家というものがありません。いざという時に帰る場所がないというのは、けっこう孤独です。
でもだからこそ、困ったら相談できる人を大切にして、一人でも楽しめる娯楽をたくさん見つけることが大切でした。いつか一人ぼっちになっても大丈夫なように。

時にはその不安を紛らわすために、たくさんお酒を飲んだし、東京では多くの若者が日々オーバードーズをしています。地盤の固さには個人差があって、その地盤を確固たるものにするには知恵が必要です。何度でもいう、それは技術です。技術を身につけるためには、技術を持つ人が知恵を分け与えなくてはいけません。技術がない人を、たまたま技術を持っている人が弾圧して、「自業自得だ」とか言って、何になるというのでしょう。

努力して身に付けたのならば、それを惜しむことなく伝えたいと思います。

山に登る前、下山後に入る温泉をリサーチしておくように、
地上に降りた時の楽しみをたくさん用意しておくことが、楽しい登山にするコツです。


①本:

一人で別の世界に逃げ込めるコンテンツを持っておくことは大切です。マンガでもいいし、映画でもいい。世の中には努力だけでは何とかならない理不尽や課題が多いから、一瞬でも現実から逃避できる手段を持っていると、メンタルの安定につながります。一人きりで、なるべくお金のかからない娯楽を見つけましょう。新聞とか、意外と面白いよ。

絶望から逃れる道や方向が分からなくても、精神を広げることはできる。広げることによって、いつか絶望が耐えられるものにならないとも限らない。

『理由のない場所』/イーユン・リー

②料理:

料理の腕を磨いておくことも大切です。外食に行けなくなっても、日々の生活が潤います。わりとすぐに成長を実感できることも喜びの1つです。何より健康が手に入るしね。

③掃除:

過去の私のようにすぐにカフェに行きたくなる人。家具がやたらと欲しくなる人。原因は部屋の乱れかもしれません。消費に頼らなくても、心が満たされる方法を1つでも多く知っていると、山を登ったとき、足がすくまなくなるよ。「ま、いっか。物が少なくても楽しかったし」となれるので。

④運動:

YouTubeにはたくさんのエクササイズ動画があります。嘘でもいいから大げさに身振り手振りをつけて動いてみましょう。意外と自然に口角が上がってくるかも。


こんな風に、「一人でもお金を使わずに楽しめる」という事実は、自分自身の大きな自信になります。しっかり地盤を固めておくこと。いつでも帰ってこられる場所にしておくこと。それが楽しい登山を始めるコツです。

心得2.幸福な下山


私たちは登り方を教えられるが、幸福に降りる方法を学ぶ機会がないのだ。

11/10 読売新聞より

例えばスポーツ選手。
彼らは小さなころからスポーツ一筋で、人生の中心にスポーツを据えてきたといっても過言ではないでしょう。そんな彼らが引退した後の、心のケアに注目したことはあるでしょうか。

信じて疑わなかった山を降りるとき、果たして私たちは幸福に降りることができるでしょうか。

私は小学生のころから勉強ばかりしてきました。
初めは好奇心が原動力であったと思いますが、いつのまにか良い成績をとることは仕事で忙しかった両親と話すきっかけになりました。やがて、不仲な両親が不満ばかりこぼしているのを見て、一人きりで幸せに生きていく方法を探すようになりました。小さな脳で得られる情報は、「高学歴になれ」「安定した大企業に勤めろ」そういったものばかりで、人生において社会的な成功を収めることが幸せに直結していると信じて疑いませんでした。

そうして走り続けた優等生という山。
それは不安からの逃避の登山でした。
大学院に入り、会社に就職し、だんだんと体調を崩し始めたとき、
「私、なにをやっているんだろう」と立ち止まりました。
「自分が登ってきた山は、間違いだったのではないか」
そう思い始めた時、現在の夫や周囲の助けもあり、その山から下りることを決めました。

しかし、初めは自分を責めることばかりが頭をよぎりました。
「無駄な体力やお金、時間を費やしてしまった」
「みんなはもっと楽しい時間を過ごしてきたのに」
それは、これまで積み上げてきたものを、ひとつひとつ削るように下山するような毎日でした。

ある日、新聞を読んでいた時、
冒頭の「幸福に降りる方法を知らない」という言葉を目にしました。
そこでハッと気付きました。
それは、登山は下山ならではの楽しみ方があるのだということです。

まずはこの山を登った自分の体力を誇りに思うこと。
「ここまで登れたのだから、次はどんな山を登ろうか」と未来にわくわくすること。登った時の自分の頑張りをひとつひとつ思い出し、自信にすること。
登っている最中には見つけることができなかった花も、この山に登ってきたから見ることができた。
そうやって一つ一つを噛みしめながら下山するのです。

そして、地上に着いたら、自分が築いた安全地帯でゆっくり休む。
明日からまた動き出せるように。

きっと、この繰り返しでいいのではないか、と思うようになりました。
資本主義は「競争社会」という側面だけではなくて、「自由に商売をしていい暮らし」とも捉えられるからです。その自由さを、手放してはいけません。

山を楽しく登れるように。


過去いちばんに長い記事を書いてしまったけれど、
最後までお読みいただきありがとうございました。精一杯書いたので、あなたの心のどこかに、この記事が残ってくれたら嬉しいです。

noteを書いているとき、私はすごく楽しいです。

それではみなさま、本当の意味での「ご自愛」を。


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