武士階級によって成り立った維新を、自己否定するかのように、武士のエートスを切り捨てるのです。 つまり、武士の階級をあまり重んじないのです。実際にそれで怒ったのが武士階級が様々な乱を引き起こした 和魂を切り捨てて脱亜入欧を進めていく明治維新政府に対する、和魂側からの反乱である
和魂洋才が決定的に難しいのは「キリスト教なしの西洋化ってできるの?」 という話 被造物感というのは、物は簡単に扱ってよくて、しかも合理的だというその2つが合わさったときに、産業革命と物質文明がそこから出てくる 人間が被造物の中でもトップで、それ以外は人間より下がキリスト教の根幹
日本は、「東洋」でも「西洋」でもどちらでもない、と主張する学者もいる。 独特の『和』の魂/精神を中心に、古今東西の良いところを取り入れている。一言で言うと『和魂洋才』(わこんようさい)。
「ものの捉え方」の違いとして分かりやすいのが、 「東洋」と「西洋」。 あくまで「傾向」であり、人間一人一人違うのは大前提ですが、 ザックリと理解しておくと面白いです♪ ▼全編をチェックしたい方は以下の記事で。 http://shi-shin.jp/3tv3
日本は天を求める人間こそが、この国のアウトサイダーにならざるを得ない 天を求める人間が、なぜかインサイダーになれないのです。 西洋だと、天を求めキリスト教とつながることがまさにインサイダーであることの証明でしたが、近代日本ではそれが果たせないということになります
自尊と独立の精神、つまりは武士的なものと言える誰かの主に支えられて、それに対する尊敬の念を捧げながら、自分の独立と自主を守っていくといったものが、自らを生かす場を見つけられずに、さまよっていくことになる 日本は最初から社会的な道徳とそれに還元し得ない和魂との闘争、矛盾、ずれ悩んだ
西郷隆盛をどういう精神で論じているのかというと、まさにキリスト教徒のピューリタニズムの精神として西郷隆盛を持ち上げ、それを褒めたたえるもの 西郷それから内村鑑三あるいは福沢諭吉、そういった武士道精神的なものが果たして社会道徳に還元できるのかという問題が、ここで立ち現れてくる
教育勅語と大日本帝国憲法というのは、ほとんど期を同じくして出てくること 信仰の自由と天皇制国家が矛盾するときがある 明治初期のキリスト教に注目したいのは、ほとんどは武士たちがキリスト教徒だったということ 武士道的なものというのは、近代日本の中ではキリスト教が一番近かったということ
アジア全体をまとめて西欧と戦うといったような、アジア主義の起源としての西郷隆盛像もある 西村茂樹が超世俗的な仏教とかキリスト教を捨てて世俗宗教である儒教や、世俗的な合理性を重んじている西洋哲学というものを取り入れて、儒教を哲学的にもう1回かみ砕いて道徳を作り上げるべきだと述べた
神の信仰を持っていればどんな階級だろうと、みんな基本的に一緒だということ キリスト教信仰と物質文明とヒューマニズムというのは三位一体 報国への意思 ある種武士道のエートス 福沢諭吉の「やせ我慢」の精神があって初めて文明開化、あるいは四民平等というものが成り立っていく