学校に見る和魂洋才(2003)
学校に見る和魂洋才
Saven Satow
Jun. 09, 2003
「明治以来、西洋の制度をいろいろとりいれたけれど、最大の失敗は『和魂洋才』にあったと思う。制度を変えながらも、文化をとりいれなかった、ちぐはぐさである。戦後教育だって、制度は変わっても、文化はむしろ過去の一元化を志向している」。
森毅『むしろ洋魂和才』
最近、教育基本法の見直しが中央教育審議会答申で言及され、国会で論議されています。変更を求める勢力は、戦後教育の問題点が教育基本法にあり、「愛国心」を盛り込むべきだと主張しています。
ところで、今の日本の教育には、戦前から続いている慣例が数多くあります。まったく国会では論じられていませんが、学校建築を含めて、この慣習は、現在では、合理的な根拠を欠いている場合も少なくないのです。
大学や専門学校を除く、ほとんどの日本の学校には、昇降口があります。それは小中学校の大部分と高校の多くで、外履きと上履きの2足制を採用しているからですが、これは近代日本だけに見られる光景です。明治以前も、確かに、屋内では外履きを脱ぎます。けれども、畳張りが中心の屋内を歩く際、裸足もしくは足袋であって、上履きを用意することはありません。さまざまな言い訳が述べられていますが、これは、明治初期、学校を板張りの擬似洋式にした時に生まれているのです。
下駄箱と昇降口は極めて非合理的です。収納する巨大な下駄箱と登下校の時間に集中する混雑を緩和するために、一箇所に広いスペースを確保しなければなりません。また、昇降口の配置を優先させなければならず、校舎内の空間が制限されます。
そもそも、昇降口を備えた学校では、火事や地震などの災害時に避難する時に、極めて不都合、率直に言って、危険を生じます。一箇所しかない逃げ道と凶器と化す巨大な下駄箱、ガラスの破片の上を脆弱な上履きで歩くなど、神戸の地震を知る人にとってはぞっとさせられることでしょう。
昇降口を入って、教室に向かうと、意欲的な意図の下に建設された学校を除けば、廊下は、教室に対して、北側にあります。伝統的な日本家屋では、廊下は部屋に対して南側にあります。それは、一般に、縁側と呼ばれます。実は、教室に自然光を取り入れ、さらに冬季の人工暖房の補助として太陽光を使う理由から、教室を南側にするように文部省が1901年に通達を出しているのです。
それ以前、四国や九州では、台風の進路にあたり、教室を強い風雨から守るため、廊下が南側に造られています。しかも、秋口の照りつける太陽光が午後の授業の邪魔になることも配慮しています。しかし、そういった地域的な諸事情は文部省に無視されます。かくして、暗い北側の廊下は、怒り狂った教師から生徒へ与えられる罰の場と化すのです。
文部省は、当初、校舎を洋館風、すなわち廊下を挟んで左右に部屋がある建築にすることにしています。長野県松本市の旧開智学校(学校建築として、初めて、国の重要文化財に指定されています)などがその様式で建築されています。ところが、これは、風通しが悪く、日本の蒸し暑い気候には不向きだったため、初等・中等教育の校舎には次第に採用されなくなります。
教室に入ると、1人机をわざわざ2つくっつけて、並べています。これは1890年代までは2人で1冊の教科書を使っていた名残です。教科書は、当時、個人の所有物ではなく、学校の備品であり、授業の度に、生徒に貸し出されています。
大学の校舎がこういった慣例に縛られていないのは、いわゆるお雇外国人教師が多くいるからです。これらの慣習は、少しずつですが、初等・中等教育に携わる意欲的な人たちによって見直されてきています。机をコの字型に配置する試みも広く見られるようになります。
けれども、まったく同じ制度のままというのもあります。
今、学校の年度は4月からスタートします。明治政府が模範にした欧米の教育制度では、9月に新年度が始まります。日本でも、そのため、当初は、学校によって多少まちまちでしたけれども、外国人教師の多い大学では9月を新年度の最初としています。4月を新年度の始まりにするというのは、日本でも、実際には、弊害の方が多いのです。
4月を新年度の始まりにしたのは、入学試験の都合です。1880年代後半に、年度会計が4月に変更され、軍隊がそれにあわせて4月に徴兵検査を実施することになります。もともと、明治以前は、1月に始まり、12月に終わるというのが年度の慣例です。
近代教育が始まったものの、教師不足は深刻です。そこで、教師を育成することが急務とされ、師範学校はさまざまな優遇措置をとって、学生を募集しています。けれども、徴兵がその前に行われてしまえば、学生を集めにくくなります。優秀な学生を取られたくない理由から、師範学校が新学期を4月に変更したのです。他の高等教育機関も入学時期を同じようにずらし、その結果、下級の教育機関も変えざるを得ません。
4月入学のため、入学試験が1月中旬から3月初旬に行われます。この頃はインフルエンザが最も流行しますし、天候が不安定なため、交通も乱れがちで、学力を試す試験には、最悪です。9月開始なら、最もすごしやすい季節に入学試験を実施できるのです。そうすれば、今よりも入学試験という名の運と体力を測る試験ではなくなるでしょう。
欧米の学校制度では、9月に始まり、6月に年度が終わります。7月と8月は夏休みにあてられています。ヨーロッパでは、小麦を栽培する地域が広くあります。6月には春小麦の収穫が終わります。欧州、特にアルプス以北は、日本よりも緯度が高いので、秋から春にかけて昼も短く、曇りがちですから、農閑期にあたる夏には日光浴が健康のために必要だと考えられているのです。
一方、日本では稲作が全国的には主流です。亜熱帯性の作物である稲を温帯地域で栽培するには、夏の労働が欠かせません。ですから、夏に休むという習慣は江戸時代にはありません。年度開始が4月に変えられても、欧米にならって採用された夏休みの制度は残ります。けれども、新学期が始まって、すぐに、夏休みに入るのでは、学業の習得に差し支えるという理由から、夏休みの宿題が導入されるのです。
ところが、休暇に宿題を課すというのはそもそも矛盾があります。欧米では、夏休みに宿題はありません。しかも、継続的な学業のために配られる宿題をより有効に休暇をすごす工夫として、生徒たちは、短期間に、たいていは残り数日の間に片付けます。夏休みの宿題が、目的通り、効果的に機能しているとは言えないのです。
明治維新以後、日本では欧米の制度を導入する際、そのまま真似るのではなく、「和魂洋才」すべきだと考えられています。一例が大学における神学部の不在です。欧米にならって大学を設置した際、神学部を置いていません。世界史において、初めて、神学部のない大学が生まれています。
これは日本の近代化の特徴を端的に示しています。キリスト教をめぐる言説がイデオロギー対立の中心だった欧米と違い、近代日本では、教育がイデオロギー対立の場となってきたからです。明治政府は近代化とそれに対する反動──教育勅語がその代表です──を学校によって全国に普及させています。学校は教会であり、教師は宣教師です。今、また教育基本法の見直しの名の下にイデオロギー対立が顕在化しています。
しかし、「和魂洋才」の実態は今まで見てきた通りです。「和魂洋才」は欧米の制度を日本の実情に合わせると言うよりも、体裁だけ取り繕ってきた言い訳です。制度はある発想に依拠しています。前者は具体的、後者は抽象的です。模倣する際には発想を捨てて制度に絞った方が効果的に思えます。
けれども、具体性は汎用性がありません。それが生まれた地域では発想が共有されていますから、制度が支持されているのです。抽象性を切り捨てると、応用がうまくいかないのです。制度の背景にある発想を理解した上で、日本の実情にあった導入を指向すべきです。むしろ「洋魂和才」に基づいた議論こそ必要でしょう。
〈了〉
参照文献
佐藤秀夫、『新訂教育の歴史』、放送大学教育振興会、2000年
森毅、『21世紀の歩き方』、青土社2002年