力、権力や財力で確たる格差が今の社会には出来上がってしまっている 政治家などが一番上とすると貧困層が一番下、その中間が保守などと言える 恐らく、下の人たちにとっては中間と一番上の人の区別はほとんどつかないかと思う 中間が下を動かせないのは下の人たちにより添えていないからだと思う
常識の一致が無ければ、いかなる正論も空転するだけだし、非道な行いもごまかしきれてしまうのではないかと思う 如何に今の社会では恥や罪悪という感覚の普遍的な共有が難しいのかということとそれが異常な状態であることの両方の認識の輪を広げていく必要がある思う
常識というのを不動の規律とするならば、あるか無いかの話だが、それぞれがそれぞれの常識間のようなものを持っているとするならば、不一致が多いという話になる 明確な常識一つに絞り、他を排除する方向で行くか、自身たちにとっての常識を決めるが他も認める方向で行くか。 自分は寛容な方がいい
ギブ&テイクは健全な関係だと言い切れるだろうか? 生物的視点から見れば、他に自分のものを与えるのは自分の生活上、そこまで重要ではないもので、自分が窮地になった時の見返りを期待したうえで渡す行為であると聞く 少なくとも対等の関係で行われているわけではない。自分の身の安全が優先される
反省は極めて大切なことだ。だが、理屈攻めで無理に強いても意味のある反省にはならない 感覚的な恥や罪悪を感じないことには反省には至らない。形だけ取り繕うか、別の理屈を並べ立てて誤魔化すかになるだけだ 筋のある正論をぶつけただけでは反省は促せないということは言えると思う
常識が異なる相手との関わりはとにかく平行線をたどるしかない 端から合わせる気がない癖に、形だけの善行を勝手に行い。自分がいいと思うことを受け取らないとひたすら罵倒してくる 常識が一致していない相手から渡される善意ほど迷惑なものはない 責任感なく善意を振りまいても害になるだけが多い