科学技術と野球の150年
東京オリンピック、FIFAワールドカップカタール大会と時々の話題をさらうニュースについて書いてきた。となれば、今回もそんな話をするしかないだろう。ここでは時事性も取り込みながら、歴史を記しておきたいからだ。
プロ野球という神話
第5回目となるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表が実に14年ぶり、3回目の優勝を果たしたのは2023年3月22日のことだ。
日本は平日の午前中であった。朝の通勤電車では、スマートフォンで中継を観ている人が何人もいた。どういうわけか、女性が目立った。いや、大谷翔平を筆頭にチャーミングな選手が多くチームとしてもなんとも楽しそうな集団であるのはメディアを通しても感じられ、それは男女を問わず惹かれるものだ。そもそも意外の感があること自体、私が旧い世代のせいなのだろう。なんとなれば「カープ女子」などもちだすまでもなく、女性の野球人気も普通になっているご時世なのだ。むしろ、ひと昔前、男性であれば知らない人のほうが珍しかったはずの野球のルールを知らない若い男性がこの頃、目立って多くなった。時代はいつも通り変化しているのだ。
思い起こせば、第1回のWBCも世間は大盛り上がりで、にわかに興味をもった知り合いの女性にルールを説明した覚えがある。たしか、なぜファールがストライクにカウントされるのか? そして2ストライクからのファールはなぜカウントされないのか? そんな質問だった。そんなことを常識としていた私(私たち?)の虚を突く質問だった。1週間が7日間であるように、それは当然のことだった。私たち日本人(とくに男性)にとって野球は神話の世界だった。神々は球場にいて私たちの世界を創っている。そう信じられてきた。
高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』(河出文庫)では、1980年代に活躍したプロ野球選手たちがカリカチュアされ神話のように語られる。
野球は日本の近代化と歩みをともにする。とすれば野球を語ることは近代化を語ることに通底する。西欧の物真似として進んだ近代化は、悲壮であるほど、必死であるほど滑稽である。悲劇であり喜劇であるのは、そのまま神話だ。あるいは高橋の意図はそんなところにもあるのだろう。
時間的秩序としての歴史
日本に野球が渡ってきたのは1871年、明治4年だ。アメリカのニューヨーク州クーパーズタウンでベースボールが考案されたとされる1839年から32年後のことである。よく知られているように野球は正岡子規らの文化人に愛された。とくに大学などの高等教育機関の学生の間で瞬く間に盛んとなった。これは野球の伝道師たるお抱えアメリカ人の勤め先が高等教育機関であったことを思えば当然の話である。
明治維新を経て日本は一気に近代化を進めた。アンシャンレジームを打破し、西欧列強に肩を並べるべく邁進した。近代化とはとりもなおさず西欧化のことである。具体的に求めたのは科学化、工業化によって富国強兵を成し遂げることであった。
日本には明治維新によって西欧の文物が雪崩をうって流入した。西欧では別のものとして扱われる「科学(Science)」と「技術(technology)」は、「科学技術」というひとつのものとして入ってきた。西欧ではドイツ、アメリカを中心に第2次産業革命が進行していた。それを目の当たりにした明治政府は社会の進歩のなかに、基礎科学のそれよりも応用技術のそれを多く読み取った。世界に先んじて総合大学(university)に工学部を設立したのはその証左だろう。
私たち日本人はこのようにして西欧化を進めた。「和魂洋才」と言いながら、西欧の文物をかなりデフォルメして受けいれ、歴史の流れもなく生活の根もなく絵に描いた“西欧化“を実現しようとした。西欧らしさ、西欧っぽさが重宝され、科学っぽさが客観性を担保して普遍的価値の審級のトップにいただき、普遍的価値を具現するものとして技術を追い求めた。
日本は、ちょうど電話線のインフラさえ整わなかった国に、いきなり携帯電話が流入したように、ひとつの時代をスキップして近代化した。強国こそを最大の目標にして科学化を進める、ここ30年の中国あたりの姿に似たものを感じるといえば反発を招くだろうか。
こうした西欧化による近代化に抜け落ちているのは、歴史、伝統であり、時間的な秩序である。時間的な秩序とは身体をもった、つまり生命をもった時間の経過である。だから歴史はいつも倫理を証明しようとする。はっきりいえば、歴史、伝統が抜け落ちることで倫理は後退する。ゲノム研究やAI研究において取り沙汰されるのが中国の天才たちの倫理観なのは、そんな背景があるためだと考えている。
これはいささか唯物史観に偏るのだが、日本左翼には有名な「日本資本主義論争」というのがある。弁証法的にプロセスを経て発展する歴史観──それはもとを正せばヘーゲルのものだが──によれば、マルクス主義では社会主義へと発展するには5段階を経ねばならない。すなわち、原始社会、奴隷制、封建主義、資本主義、社会主義の5段階なのだが、明治維新を封建主義から資本主義の段階とみるブルジョア革命とみる労農派と、明治維新はブルジョア革命を実現しておらず、まずはブルジョア革命から起こしプロレタリア革命によって社会主義を実現するとした「二段階革命論」を唱えた講座派の間で第2次世界大戦前に日本共産党を二分して論争が繰り広げられた。
要点はこうだ。私たちは少なからず江戸時代に市民社会を成立させていたか否か。日本人は自分たちの社会をより遅れたもの(講座派)と考えるか、それよりは進んでいる(労農派)と考えるかでアイデンティティを定めきれずにいた。列強に後れて世界史に登場した日本ならではの劣等感と列強以外に対する優越感の由来はこの辺りにもある。
話が大きく逸れたようだ。しかし、これは日本の科学史を考えるうえで重要な論点なのだ。そして科学同様に西洋の文物である野球の歴史にも同じ影が潜んでいる。
日本資本主義論争についてはすでに忘れ去られようとしているが、私はたしか丸山眞男の『日本の思想』(岩波新書)だかで知ったのだと記憶している。ご存知ように、丸山は日本には市民社会は形成されておらず、正しく日本社会は近代化されていないと考えていた。日本近代が未成熟な歴史しか有していなかったとすれば、倫理観もまた未成熟なものであった。そんな丸山であったが、日本の未熟な近代化を反省しようと立ち上がった東大全共闘に対し、研究室を封鎖された際に「ナチもしなかった」と猛烈に批判したことを付記しておく。
科学立国が求めた1940年体制
明治以後、日本への科学技術の流入と受容を論じたのは、山本義隆の『近代日本一五〇年——科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書)である。明治以降の日本が、殖産興業・富国強兵を第一義にして科学技術をいかに振興してきたかを闡明することができる。山本は次のように述べる。すこし長いが本稿の論旨を強めるものだから引いておく。
近代日本の150年とは、その半分が戦争の時代である。殖産興業・富国強兵が求めるのは挙国一致の軍需産業の推進であり、山本が「科学技術総力戦体制」という国のかたちである。「末は博士か大臣か」という立身出世のモデルに表れる博士は、端的に工学博士であり、それが御国のためと信じられていたのは、ついこのあいだまでのことだ。
私たちは短期間で国際競争に勝つために、原理主義的ともいえるほど過激に科学化を推し進めた。そこに(社会思想・政治思想をふくむ)倫理は抜け落ち、国を挙げて破滅へと戦争の道を邁進し、その反省もおろそかなうちに工業によって経済成長を成し遂げてきた。山本の同書にもあるのだが、ハーバー・ボッシュ法によって空気中の窒素からアンモニアが生産され、それは火薬の原料となり世界大戦の資源となり、戦後は肥料として日本の農業に欠かせない存在となった。日本窒素肥料株式会社が高度成長期に水俣病を引き起こしたことは有名だ。この会社の創始者である野口遵は、先に書いた世界初の総合大学の工学部である、東京大学工学部を出たエンジニアである。山本が同書でいうように第2次世界大戦の敗因として「科学戦に敗れた」と言いながら、科学者たちへの追及も科学者たちの反省もついぞ聞かれなかった。なぜなら、科学戦の敗北を取り戻すべく「科学振興による平和国家の建設」という新たな題目がどこからともなく与えられたからである。
科学の挙国一致体制は戦時中だけの話ではなかったことは、野口悠紀雄の『1940年体制—さらば戦時経済』(東洋経済新報社)でも明らかだ。戦前期にまさに戦争に勝つために生まれた「日本型経済システム」として挙国一致体制は戦後もその目的を経済成長にシフトして生き残りつづけた。わかりやすい例でいえば、大手広告代理店の電通は戦前、政府による情報通信機関の一元化の方針によって大手通信社が合併され設立した同盟通信社がその巨体のまま残ったものである。これは多くの国内産業においても同様であったし、そういう時代はついこのあいだまで続いてきた。私たちはある意味、ずっと戦時下にあったともいえる。
野口は同書で1940年体制の特徴を「生産者優先主義」と「競争の否定」としている。国を挙げての「産めよ、増やせよ」であり、「護送船団方式」「株の持ち合い」という強く大きい者だけを優遇する産業構造によってひたすら経済成長に集中したのだ。科学技術は日本政府にとって絶対の価値であり目標であり続けた。歴史も伝統も顧みられることはなかった。倫理は抜け落ちたままであった。
ところで、山本義隆は東大全共闘のリーダーとして名を馳せた人である。東大の物理学研究室でノーベル賞を期待されるほどの科学者だった。山本は高度成長を進める日本において、倫理の抜け落ちた科学技術に疑問をもった。それを推し進める大学、政府に疑問をもった。倫理を取り戻そうとした。それは全共闘運動に参加する多くの若者に共通する疑問であった。全共闘の時代は、ヒューマニズムを第一義とする実存主義の時代でもあった。科学技術に対する反省から、人間の実存が問われた。新実存主義が登場した現代は、全共闘の時代にし残した反省をいま一度しなおすべき時代なのかもしれない。
職人が求めた技術の先鋭化
明治維新のところで「西欧化」といった。ここに込めた意味はここまで見てきたように科学化のことを一面とし、そのほかの面には宗教と文化がある。
日本が近代化を進めるうえで、もうひとつ受容を余儀なくされたのはキリスト教である。「和魂洋才」はむしろ抵抗のスローガンとしてあったと考えるべきだと、村上陽一郎は『科学史・科学哲学入門』(講談社学術文庫)で論じる。西洋が求める普遍的な価値観の背骨にキリスト教をみるのは当然である。神道も仏教も当時は思想性を失って儀式化していたのだから流入に対する障壁もない。日本の近代化を、キリスト教を基盤とする科学思想の受け容れにあると、村上の同書はいう。
しかし、私に残る疑問は日本がキリスト教を背骨として科学技術を受容したのであれば、なぜに倫理が抜け落ちてしまったのかという点である。
私はそこに科学と技術を同一視したことによる弊害を見てとる。日本は古くから職人の国である。それこそ司馬遼太郎の短編集『酔って候』(文春文庫)に収録されている「伊達の黒船」の主人公である前原巧山は金物細工の職人だったが、藩の命令で長崎に留学、初めてみた蒸気機関をわずか4年で製造してしまう。江戸末期の職人で日本の近代化に寄与した人物は、からくり儀右衛門と呼ばれ東芝の元を創立した田中久重など数多い。田中は鼈甲細工の職人であった。
こうした優秀な職人は近代技術の取り込みに大きな功績があったのと同時に、思想としての科学の受容を妨げた可能性を感じるのだ。トリビアリズムを追求するのが職人だからだ。「神は細部に宿る」のである。普遍性や標準化よりも、個性や独自の工夫を欲するのが職人のアイデンティティではないだろうか。優秀であれば、さらにアイデンティティは強化される。技術の先鋭化をこそ後押しする状況ができあがる。
海外からの文物の流入は、なにも明治期日本に限らず思想よりも具体的な物や技術が先行するのも常ではある。物や技術が先行する、つまり目的より手段が先行してしまうと、手段は容易に先鋭化し過激化する。技術そのものを目的としたことが日本の近代技術の振興を支えたのも事実だが、それ自体が目的となれば容易に暴走を許す。本来は手段であるべき技術から倫理(目的)が抜け落ちる。時間的な秩序と倫理の関係は、この目的と手段の順番(秩序)が狂うことだからだ。
「サムライ」は何を象徴するか?
私はこの問題は現代のAIを象徴とする情報科学技術の振興にまで通底していると考える。それは、科学であるより技術であることを優先しているように見えるからだ。サイエンスよりもエンジニアリングを追うことは、なによりも経済成長にとって理にかなっている。
AI研究における倫理観が、たとえば先端技術のひとつであるゲノム編集のそれに比べて非常に遅れているように感じるのは、一方が端的にエンジニアリング重視であることに対し、もう一方がサイエンスを重視していることにあるようにも思うし、また歴史や伝統という論点でも医学や生理学はなんらかの文明を有した国であればたいてい長い歴史があるし、私たちの生活に根を下ろさざるを得ない分野でもある。
AI研究において、倫理を担保するはずの目的と手段の秩序が狂ってはいまいか? そのことを真剣に問い直さなければならない。歴史の流れと生活の根とを見出さなければならないのではないか? そう思っている。
この稿は野球について書き起こすことで始めた。野球にはすでに150年以上の歴史を日本のなかに紡いできた。それは、常にメジャーリーグという本物に対する劣等感と同居する歴史であった。本物に追いつくことを目標にしつつ、その手段は旧弊な根性主義でありつづけた。挙国一致体制の残滓のような高野連にも、高度経済成長期社会の匂いの残る日本野球機構にもどこかに封建的な錯誤があった。高校球児の多くがいまも坊主頭である様子に軍隊を見出すのはそんなに難しいことではない。
『菊とバット』(松井みどり訳/文春文庫)で、こう書いたのはロバート・ホワイティングである。1970年代も終わりのことだ。目次には「野球武士道」、「スーパー・サムライ」といった言葉が並ぶ。日本野球の特異さを際立たせ、アメリカのベースボールとの違いに日本文化の本質を見出す。当時は読売ジャイアンツの全盛期であった。当然、ジャイアンツの話題が多くを占める。ジャイアンツこそ、1940年体制(正確には戦後、CIAの意図を汲んで正力松太郎が創始したのだが)の権化のような存在であった。現在でもオーナー企業の多くが1940年体制の残滓に与するように見える。ライブドアによる近鉄買収の際のオーナー会議の団結や1リーグ化構想で選手会と揉めた際の渡邉恒雄の発言にも、1940年体制の2つの特徴が如実であった。
1970年代終わりといえば、経済的にもアメリカに打撃を与えていた日本に対する関心が高まっていた時期で、日本的経営を高く評価したエズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン—アメリカへの教訓—』(広中和歌子、木本彰子訳/阪急コミュニケーションズ)が刊行されたのは『菊とバット』とちょうど同じ頃だ。ボーゲルは同書でまさに1940年体制を維持して経済成長に邁進する日本を評価したのだともいえる。
野球の国際大会に参加する日本代表の名称は「サムライジャパン」である。しかし、ここに付けた「サムライ」と、ホワイティングが指摘した「サムライ」には隔世の感がある。
いつしか日本プロ野球はメジャーリーグに劣後するものといった認識はアメリカ国内にさえなくなりはじめている。かつての「サムライ」がエラーに対し切腹も辞さない悲壮感の象徴であったとしたら、現在の「サムライ」は挑戦を求める求道者とゲームへの敬意に満ちた様式美の象徴である。それこそは、勝利の前に正しく勝負することという、目的と手段の秩序を徹底した倫理観があるように思う。私は日本のプロ野球の成熟を見た気がした。野球に比べて、日本の科学はどうなのだろう。
最後に──。
この頃、ネット言論界隈でよく耳にするようになった「老害」という言葉だが、その定義は物分かりの悪い高齢者を指すのではなく、1940年体制で甘い汁を吸った人を指すべきだ。大企業、大メディアで肩をかぜ切ってきた人のほとんどがかつての信用を失っている。彼らは往々にして反省がない。未だに手段と目的を履き違えていることに気づけない。だから、形骸化した「資本主義批判(みずから資本主義で肥え太ったのを忘れている!)」「権力批判(みずからが権力側なのを忘れている!)」だけで偉そうにしていられるわけだ。目端のきく連中は若手の論客に積極的に擦り寄って、自分だけは「老害」ではないような顔をしてやがる。敗戦の反省をしなかった78年前の大人たちとまったく変わりゃしない。
翻って若者に言いたいのは、「老害」批判を市井で苦労を重ねてきた人たちに無闇に向けるべきではないということだ。