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#生きづらさ
生きやすくなるためのヒント
先週は「生きづらさという言葉に持てる希望」というお話をしました。
そして昨日は「生きやすさとは?」というお話をしました。
昨日の話では、結論が出ないまま稿を閉じましたが、今日は早速「生きやすさ」についてのヒントを見つけましたのでお話していきたいと思います。
どうすれば生きやすくなるか。
どのような状態が生きやすいと言えるのか。
そのヒントとなるキーワードたちがこちらです。
・強くなる
・優
生きづらいの前に「生きやすい」って何だろう
僕の目指すゴールは「生きづらさの無い社会の実現」です。
その実現に向けて日々模索し思考を続けているのですが、
先日ふと思ったのです。
「生きやすいってなんだ?」と。
辞書を引き続けると直面する面白い現象をご存知でしょうか。
例えば快と不快。
不快と調べれば快くない状態と出て、快と引けば不快でない状態と出る。
本当の言葉って何だ?と思わず言いたくなりますよね。
もちろん辞書に載ってる言葉
「生きづらさ」という言葉に持てる希望
生きづらさそれ自体は忌むべきものだが、
生きづらさという言葉には力がある。
自己責任論の隆盛、個人化が進む社会において、
一人でリスクを背負って生きていかなければならない私たち。
1つの属性だけに当てはまらない、
どう表現すればわからない、生活する上での心身の困難を、
生きづらさという言葉は1つにしてくれる。
質は明らかに異なり合うものたちを繋ぎ合わせてくれる。
完全にはわかり合えないけれど
不登校・ひきこもりは問題の発生ではなく本人にとっては問題の解決方法?
一見問題の発生や問題そのものに思える事象も、実は当事者にとっては別の問題の解決方法として考えだした末の行動だということがあります。
不登校やひきこもり、さらにはいじめなんかもこうである可能性がある事象です。
親や教員、支援者などからしたら、
不登校やひきこもりは問題の発生でしかないでしょう。
学校に行くことが正常だとするならば、
部屋にこもらず社会に出て働くことが正常とするならば、
不登校と
自分に感謝するということ
まずは体からスタートさせましょう。
私たち人間が他の動物と大きく異なる点は、二足歩行をするということでしょう。
まずは手。
手があるおかげで、私たちは色んなものを触って情報を得たり、扱えたりすることができる。
スマホを触れるのも、ペンで字を書けるのも、パソコンで作業が出来るのも、お箸やスプーン、フォークが扱えるのも、車が運転できるのも、手を握って大切な人の暖かさを感じるのも…
私たちは手が
やりたいことや夢よりもあり方
塾講師という仕事柄、生徒たちと「将来の夢」や「やりたいこと」について話すことがあります。
以前の記事でも何度か書いたことがあるのですが、
僕はこの大人からの「やりたいことハラスメント」が大嫌いだし、今すぐに辞めるべきことだと思っています。
やりたいことが無いと生きづらいような、
大きな夢を持っている人が偉いような、
それでいてやりたいことが見つかりづらいような、
そんな世の中を形成しているのは
人間のアイデンティティは全身に刻まれたタトゥーのようなもの。一部の模様を見て人を判断するな!
人のアイデンティティというものは、
どこで定まると思いますか?
または、あなたは人のどこを見て、その人がどんな人かを判断しますか?
国籍でしょうか。
民族でしょうか。
地域でしょうか。
文化でしょうか。
言語でしょうか。
肌の色でしょうか。
所属する組織でしょうか。
僕の答えは、全てです。
え、それ卑怯じゃね?
と思ったそこのあなたは無視して進めていきます。
僕が思うアイデンティティと
幸福度という尺度のうさん臭さについて
「国民総幸福量」
「幸福度ランキング」
みなさんもこれらの言葉は聞いたことがあると思います。
これまではGDPなどの経済指標が人の幸福をはかる指標となっていました。
儲かっていれば、景気が良ければ、お金があれば、ある程度は人は幸せになれるだろう、と。
けれど、大戦や冷戦、経済危機などを経て、
果たして本当にそれで良いのだろうか?
幸せ=お金なのだろうか?
という考え方が生まれ、
1972年
僕が「いつ死んでもいい」と思うに至ったワケ
やりたいことが残っているうちは死ねない。
最近まではそう思っていました。
しかし今は、いつ死んでもいいなあ、と思うようになりました。
ネガティブな感情ではありません。
希死念慮でもありません。
最近嫌なことがあったわけでもありません。
朝起きて鏡に写る自分に
「もし今日死んでも後悔がないと言えるか?」
みたいに問いかける意識高い系でもありません。
死ぬのは怖いです。
きっと直面したらおし