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幸福度という尺度のうさん臭さについて

「国民総幸福量」
「幸福度ランキング」

みなさんもこれらの言葉は聞いたことがあると思います。

これまではGDPなどの経済指標が人の幸福をはかる指標となっていました。

儲かっていれば、景気が良ければ、お金があれば、ある程度は人は幸せになれるだろう、と。


けれど、大戦や冷戦、経済危機などを経て、
果たして本当にそれで良いのだろうか?
幸せ=お金なのだろうか?
という考え方が生まれ、
1972年にブータンの国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクによって、
「国民総幸福度」という概念が提唱され、
その後一気に世界中に広まっていきました。

ぼくはこの考え方があまり好きではありません。
深みを全く感じないからです。

正直うさん臭いと思っています。

しかし、そのきな臭さを言語化することができないまま、長い間悶々としていました。

北欧の国やブータンなど、
「国民幸福度ランキング世界No.1!」などの見出しがメディアや本に踊り、
それらの国に見倣おう!追いつき追い越せ!

という風潮。
ずっと違和感を持っていました。

それでは何故僕が、この「幸福度」という指標や考え方を、
うさん臭いと思い、「うっすいなあ…」と感じるのか、説明していきたいと思います。

まず、幸福とは何か、これを考えたときに、
幸福=個人の満足度
と捉えると非常に楽です。
整合性もあるような気がします。

しかし、日々の暮らしに概ね満足していることが、
そのまま幸せとなり得るか、
こう問われると、疑問を抱かざるを得ません。

そして、個人の満足度なんてものは、個人と言ってしまってることからもわかる通り、
人それぞれ、千差万別、十人十色です。

それを幸福度の名のもとに包括することなど、端から不可能なのです。

加えて、幸福というものには、
後追いで、時間差で感じるものであるという特性があります。

あの頃は良かった。
あの時は幸せだった。という具合に。

今まさに美味しいものを食べているから幸せだ。
好きな人と触れ合っていて幸せだ。

確かにこうしたことは幸せを現在進行系で噛み締めているように思えますが、
これはどちらかと言うと快楽に近いでしょう。

幸せ=満足度では、個人差があるので測れないし、満足=幸せとも言い切れない。

そして幸せの後味性と言いますか、
後追いでやってくるという特性からも、
現時点での幸せを測ることは難しいように思えます。

アンケート調査で
「あなたは今幸せですか?」という問いに多くの国民がイエスと答えたら、
幸福度ランキング上位の国になれるとしたら、
なんて陳腐なことでしょうか。

正確には、収入や職業、住居、コミュニティ、教育、健康、ワークライフバランスなど、複数の指標を基に導き出されているようですが、
OECDや国連など複数の団体が調査を行なっており、
そのやり方は共通しているわけではなく、国際基準などは無いようです。

まあ、つまりは「幸せですか?」「はい、幸せです」
というほど単純なものではないにせよ、
そうした目に見えるものでしか測っていない以上は、陳腐だなあ、という僕の感想は変わりません。

では、どうすれば幸福度なんてものが測れるか。
可能性として残っているのは脳波を測定することなどでしょうか。

幸せ脳波、のようなものを測れば個人の幸福度は測れるような気もしてきます。
しかし、人間の脳はけっこうバカですよね。

すぐに麻痺したり錯覚を起こします。

幸せ脳波で個人の幸福度を測ったら、
薬物中毒者の幸福度が異常に高かった、なんてことがあってもおかしくないように思います。

ここら辺りでもうそろそろ、幸福度なんて測れない、と言い切ってもいいでしょうか。

次の話題に移りたいからです。

冒頭に述べたように、
なぜ幸福度という指標が、僕にはこんなにも浅はかに感じられるか、ということについてです。

それは、この幸福度というものに、
不幸や悲しみ、苦しみはダメなもの、
不要なもの、人生から取り除かれるべきもの、
という考えが埋め込まれていることを感じるからです。

皆さんこうは思っていませんか?

現状−不幸=幸福

この方程式は成り立つと。

こう思っているのだとすれば、あなたはきっと幸せにはなれないでしょう。

と言い切ることは辞めておきます。
ついさっき幸せは人それぞれだから測ることなどできない、と言ったばかりですからね。

それで幸せだと思う人はそれで良いのだと思います。

現状−不幸=幸福
この方程式が何故成り立たないか、
それは月並みですが幸福と不幸は表裏一体であり、連関していて、切っても離せない関係だからです。

不幸でないことが幸福なのではなく、
不幸があるからこそ幸福なのです。

不幸はその前後に訪れる幸福に深みを与えてくれます。

そして何より、他者の不幸に思いを馳せることができます。
現代の世界では、不幸を取り除いた先に幸福があると思うからこそ、
他者の不幸に目を向ける、考えを巡らせることができない人が増えているんではないでしょうか。

苦しんで底を見ないと、幸せにはなれないはずです。
というよりもそこに深みは生まれませんし、
何より他人の不幸に目を向けることができない以上は、
それは完全に個人のものになってしまいます。

不幸と幸福が表裏一体で、誰かの幸せは誰かの不幸になっているという側面もある以上は、
1人1人の幸福度なんて測れるわけはないし、
「イチ抜け」「1人勝ち」なんてできるはずがないのです。

個人の幸福なんてありえないのです。

不安や不幸を消失してしまおうという意思が他者への不理解を生み、
皆がエゴをつい通すようになり、共同体は全体として不幸になり、
多くの人は不幸になり、一部の人が「満足度の高い生活」を手にする。

しかしそこに幸福は訪れない。

結局、みんなで幸せになるしかないのです。

その為には、「幸福=不幸じゃない」という考え方を変えなければならない。
そして不幸の意味とその重要性を理解し、
失ったものが多けれればその分深くなる幸せを、より多くの人が実体験で知る必要がある。

先ほどは万国共通の幸福の概念なんて無い、といった旨のことを書きましたが、
それはもちろんそうで、
この記事の後半における僕の論の展開は、これこそ幸福論の大正解だ、
と言っているように聞こえて矛盾を感じる人もいるでしょうが、

まさに今私たちに必要なのが、
幸福とは?という問いへの正解ではなく、
幸福とは?という問いにもっと皆で向かっていくことです。
「幸福論」をもっとみんなで考え、共有していくことです。

「幸せって何じゃろね〜」
ともっとみんなで話して見るべきと思います。

僕がこの記事を通して言いたいのは、

ランキングの上に成り立ってしまうような、誰かと比較できる度数の存在するものが幸福ならば、
僕は幸福になんてならなくていい。
なりたくない。

ということであり、正解がないのならばみんなで自分の思う「幸福論」を展開し合おうよ、ということであり、

「不幸を取り除いて幸せになろうとする姿勢こそが不幸を招き寄せる」
という警告です。

私たちの日常には、幸せについて考える習慣も余裕もないでしょう。
仲の良い友達や夫婦や恋人同士でも、そんな機会は少ないでしょう。

え、いきなり何?
宗教にでも入ったん?
などと言われそうですよね。

ですが、先ほど言ったように「イチ抜け」なんてできないからには、
みんなで考えていくことは必要なことです。

わかりやすい正解や幸せの方程式ではなく、
今必要なのはみんなでそれぞれの「幸福論」について語り合うことだと思います。

あなたにとって幸せとは何ですか?


小野トロ


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