慶長4年(1599)1月5日は4ヵ月以上も伏せられていた秀吉の死が新年を迎えて公表された日。秀吉は前年8月に伏見城で死去したが内外への影響が大きく秘密にされてきた。朝鮮半島からの日本軍が撤退を完了したことと新年を待ち公表された。ただ死の当日には早くも噂として伝わっていたという。
慶長4年(1599)1月10日は豊臣秀頼が秀吉の遺言に従い母・淀殿とともに大坂城へ移った日。5日前に秀吉の死が公表されていた。この移動により豊臣政権は秀吉の遺言で伏見城に残り政務を執る家康と大坂城に移った秀頼と傅役・前田利家の2つに分かれた。これまで政治の中心は伏見城だった。
慶長6年(1601)3月23日は家康が関ヶ原の戦いの戦後処理をほぼ終わらせ大坂城西の丸から伏見城へ移った日。鳥居元忠が籠る伏見城は前年の西軍との戦いで落城。家康は再建を命じ藤堂高虎により翌年末に完成。人質時代からの側近元忠が死を覚悟して残った城にどんな想いで移ったのでしょうか。
慶長5(1600)年6月18日、家康が上杉景勝討伐のため伏見城を出陣した日。ここから3ヶ月後に関ヶ原の戦い。城の守備は家康人質時代から仕える老臣鳥居元忠とわずか兵1800。8月に西軍に攻められ元忠は討死しますが、敵中の城といえる場所に残ったのは最初から覚悟はあったのでしょうね。