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 天下を掴む秀吉の戦略!力だけじゃない"裏技"。ルールを守って天下を取る?豊臣秀吉のコンプライアンス術『フワッと、ふらっと、豊臣氏の法史学』

 律令制のもとで臣下が就きうる最高の職位は、

成年後の天皇を補佐し政務を司る関白かんぱく

と、

摂政せっしょう
(天皇が幼少や病弱等の理由で政務を行うことができない場合にその補佐をする職位)でした。

 そして、この摂政・関白の座につけるのは、

明治までの日本の基本法であった「大宝律令たいほうりつりょう」を作った、

藤原不比等ふじわら の ふひと

(不比等は、「ふひと」と表記する場合もあります。は「文人」・「書人」とも表記され、「書士」・「書記」という意味です)

の功績と、

その後の藤原氏の栄華により、

今年の大河ドラマ『光る君へ』の準主役ともいえる、

藤原道長ふじわら の みちながが全盛期を築き、

藤原氏の中でも最も栄えた、

道長の子孫・藤原北家御堂流ふじわら ほっけ みどうりゅうの末裔である、

近衛家このえけ一条家いちじょうけ九条家くじょうけ鷹司家たかつかさけ二条家にじょうけ

摂関家せっかんけ五摂家ごせっけ等と呼ばれます)

だけで、

この摂関家が世襲するというのが、慣習法かんしゅうほうとなっていました。

道長の子・藤原頼通によって京都府宇治市に開かれた寺院
世界遺産・平等院

 しかし、摂関家に生まれたわけではない、豊臣秀吉が、1585年(天正13年)、関白に就任しています。

 これはどういうことでしょうか。

 実力をもって長きに渡った伝統や慣習法を破ったのでしょうか。

 秀吉は伝統や慣習法を力にものをいわせて無視したわけではなくて、巧みなコンプライアンス術を用い、以下のような経緯で関白に就任しています。

 まず、秀吉は五摂家筆頭の近衛前久このえ さきひさの養子(猶子)となり、藤原氏・近衛家の一門となりました。

 すでに秀吉が事実上天下を手中にしている以上、その申し出を前久としても断れなかったのでしょう。

 それにより、関白となれる資格を得ました。

 そして、二条昭実にじょう あきざね前久の子である近衛信尹このえ のぶただの間で、

関白の座を巡る争いがあったのですが、これに介入し、

「まあまあ、お二人とも落ち着いてください。

  お話がまとまるまで一時的に、この秀吉が関白になります。

  お二人ともお仲良く。

  えっ?「そなた、摂関家ではないではないか!」って?

  お忘れですか?

 私、近衛前久様の養子で,

藤原近衛秀吉ふじわら の このえ ひでよし

です。

 血のつながりはなくても、法的には摂関家の一員ですよ。

 異論ございませんよね? 

 お二人のほとぼりが醒めましたなら、本当の摂関家の皆様に関白の座をお返しいたしますので。 

  ホンの少しの間のことですので、この秀吉にお任せください。」

というようなことを言って、公家の最高権威である関白の座を手にし、名実ともに天下人となります。 

 そして、次に、藤原氏に代わる新たな摂関家の氏を創設するために、

正統な手続きを踏んで、

正親町天皇おおぎまち てんのうから

豊臣とよとみうじと、

朝臣あそんかばね(爵位のようなもの)が、

下賜かしされ、

豊臣朝臣羽柴秀吉とよとみ の あそん はしば ひでよし

となります。

豊臣氏の家紋「五七桐」

 氏(上記の場合だと「豊臣」)は、天皇から下賜されるもので、藤原・源・平・橘などがそうです。

 数が多くないので、栄華を極め、たくさんの子孫が残せる貴族の場合、時代が下がると、

周り見ると、藤原・源・平だらけになって誰が誰だかわかりにくくなるので、

(今年の平安時代が舞台の大河ドラマ光る君へ』は、登場人物のほとんどが藤原氏で、実際登場人物の名前を覚えるのに苦労した視聴者が少なからずおられたと思います)

領地などの地名を私称である苗字として使い、他の同族と区別するようになります。

(この点に関する詳細は以下をご参照ください。)

 例えば、室町幕府将軍家は、

氏は源で、源頼朝や源義経と同族の清和源氏なのですが、

(源氏に関する詳細は以下をご参照ください)

元々の領地の地名である「足利」を苗字としています。

 室町幕府第三代将軍も、朝廷に対する手続きに関する公文書などには、

足利義満あしかが よしみつ」ではなくて、

源義満みなもと の よしみつ」と表記していました。

足利義満が建立した世界遺産
鹿苑寺金閣
(京都府京都市北区)

 秀吉の場合は、豊臣が氏で、羽柴私称である苗字ということになります。

(明治以降、氏か苗字かいずれかのみしか名乗ってはいけないということになり、現在はこの区別も消滅しましたが)

 次に秀吉は、後継者と一旦決めた、

甥で養子の豊臣秀次とよとみ の ひでつぐに関白の座を譲り、

そして自身は「太閤たいこう」(関白の座を子に譲った人の称)となり、

 以降、関白は五摂家に代わって、豊臣氏が世襲するということを内外に表明します。

 五摂家の人達からすると「話が違うではないか!」ということになるのですが、

「そもそも関白は世を平らげる役職だが、もうだいぶの昔から五摂家にその力はない。

実質的に今、世を平らげているのは豊臣氏であるから、我らが世襲することにより、本来の関白の役割に戻すことができるのである。」

というような論理で、五摂家の主張を退けます。

 トリックような技を使ってますが、一応当時のルールからは逸脱しないような形にはなっています。

 まだまだ秀吉に、いつ反旗を翻すかわからない輩が当時たくさんいたので、実力だけでは心もとなく、法的な正統性、権威的な面からもつけ入る隙を与えないようにしていたのでしょう。

 このように、ルール一切無視で力づくで関白になって、勝手に豊臣を名乗っていたわけではなくて、一応、当時のルールに基づく手続きは踏んで、コンプライアンス的にも手抜きはしないようにしてたようです。

大阪城
秀吉が建てた伏見城を参考にした模擬天守
(京都府京都市伏見区桃山町)



 

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