雑司が谷散人
2016.11.6~2018.12.18 全29日の東海道遊歩の記録
東海道
日光街道 5日目-05 2019.8.27小山宿内の日光街道旧道は、小山宿通りの名に。 小山駅前の中心街へと入る。 小山駅前の交差点手前に、古民家と石蔵を再生した「思季彩館」。 小山市の特産品などが並ぶ。 日光街道旧道左手に元須賀神社。 須賀神社の旧地で、元祇園社とも。 日光街道旧道右手に愛宕神社。 ここを過ぎると、小山宿の北の入口。 花垣町を抜けると、日光街道旧道は第一奥州街道踏切でJR両毛線を渡る。 このあたりも、旧来の日光街道の道筋は今よりやや西側を通過していた
日光街道 5日目-04 2019.8.27粟宮交差点で国道4号から分かれ、小山宿へ向かう日光街道旧道を進むと、神鳥谷地区に入る。 「ひととのや」と読むが、古くは「しととのや」だったようで、「巫鳥(しとど)」という鳥の名に由来するという。 国道50号の高架橋をくぐると、旧道左手に天満宮。 日光街道旧道は江戸から12番目の宿、小山宿へ。 日光街道から壬生道、結城道、佐野道、栃木道が分岐した交通の要衝で、天保年間の記録では、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒の規模。 天満宮のあたり
日光街道 5日目-03 2019.8.27国道左手に浄光院。 日光街道の道筋は、古くはこの寺の裏手を通過していたようだが、今は消滅している。 浄光院門前付近が、間々田宿の北の入口。 千駄塚交差点の次の信号を左へ入ると、浅間神社。 社殿のある小山は、千駄塚古墳で、東日本最大級の円墳という。 粟宮地区に入ると、国道左手に西堀酒造。 江戸末期からの酒蔵を、東近江の西堀家10代目が明治維新頃に譲り受け、明治5年に創業。 西堀酒造の源泉は、日光連山から湧き出す天然水。 広い敷地に
日光街道 5日目-02 2019.8.27国道に東京から72キロのキロポストの立つあたりが、間々田宿の問屋場跡。 国道左手の駐車場に、間々田宿本陣跡の案内板。 間々田宿は江戸から11番目の宿。 日光方から土手向町、上町、中町、下町の4町で構成され、本陣のあったのは中町。 間々田4丁目交差点を左に入り、しばらく進むと間々田八幡宮。 間々田宿の鎮守で、天平年間の勧請という古社。 平将門の乱の際、間々田八幡宮へ戦勝祈願をした藤原秀郷が御神田を奉納したことから、このあたりを飯田
日光街道 5日目-01 2019.8.27引き続き日光街道の旅。 5日目はJR間々田駅前から。 間々田駅入口交差点から国道4号を進むと、右手に小川家住宅。 今は小山市車屋美術館となっている小川家は、思川の乙女河岸で肥料問屋を営んだ商人の家で、明治末期に日光街道に面したこの地に移転してきたという。 小川家住宅の敷地内には、今も主屋、土蔵、表門、米蔵、肥料蔵の5棟が残り、乙女河岸での豪商ぶりが伝わってくる。 小川家住宅の少し先に「逢いの榎」の碑がある。 江戸と日光の中間点にあ
日光街道 4日目-10 2019.8.20野木宿を抜け、国道は単調な風景の中を進む。 このあたりには松原の地名があり、往時の街道には松並木が続いていた場所。 国道は松原から友沼地区へ。 友沼は立場のあった場所。 国道右手に友沼八幡神社。 将軍社参の際、古河城を出て最初の休憩所となった場所という。 かつては筑波山を望む景勝地として知られた。 国道は野木町から小山市へ。 この先に網戸渡船場道との分岐があり、思川の乙女河岸への道が左へ分かれた。 国道左手に小さな石の鳥居と祠
日光街道 4日目-09 2019.8.20国道左手に「野木宿入口」と書かれた小さな案内板がある。 野木宿の江戸寄りは新野木で、宿の入口には木戸があり、新野木木戸口と呼ばれた。 野木宿は江戸から10番目の宿。 宿の手前で上野国に入っているが、中田宿、古河宿とともに古河藩が管理した古河三宿のひとつ。 江戸寄りの新野木と日光寄りの本野木から成るが、もともと小規模な宿だったこともあり、今はその面影も殆ど無く、国道沿いに淡々と民家が並ぶ景観となっている。 国道左手、浄明寺手前の交差
日光街道 4日目-08 2019.8.20横山町の日光街道旧道に残る、古い商家。 奥に見えるのは小澤糀店。 創業から160年余りという老舗。 横山町の日光街道旧道に、立派な煉瓦塀の家。 古河に続く野木の地は、明治中期から昭和40年頃まで、煉瓦の一大生産地。 古河市内には今も野木産の煉瓦による建造物が多く残る。 横山町の日光街道旧道は古河宿を抜け、県道261号へ合流。 その交差点に「栗橋道」と刻まれた碑が立つ。 日光方から見た日光街道を指すものと思われるが、ちょうどこの辺り
日光街道 4日目-07 2019.8.20古河宿の鍛冶町通りに面した土蔵造りの店蔵は、明治39年築の富岡蔵。 道路整備と合わせて、今よりやや東側にあったものが、曳家保存されている。 鍛冶町通りの蔵の脇に、小さな稲荷の参道。 筑波道との分岐点に、常夜燈の載る道標が立つ。 正面に「左日光道」、右側に「東筑波道」、左側に「右江戸道」と刻まれる。 日光街道の道筋は、ここで鉤形に曲がり、横町へと入る。 横山町に入ると、日光街道旧道右手に鰻店「武蔵屋」。 もとは江戸末期の茶店「漆屋
日光街道 4日目-06 2019.8.20肴町の「坂長」。 店蔵の裏手に建つ主屋は、明治期の築。 「坂長」のある肴町通りは、川魚を扱う御用商人が多かったといわれ、古河城へ運ばれる食糧はこの道を通ったという。 肴町通りに、古河藩使者取次所址の碑。 ここに大名の使者を応接した役所があり、役人が慌ただしく走り回る様子から、役所は御馳走番所と呼ばれた。 本町2丁目交差点の先に、古河城下本陣址の碑。 付近には高札場や問屋場の跡もあり、古河宿の中心地。 本陣跡地のひとつ先の交差点
日光街道 4日目-05 2019.8.20御茶屋口から古河城址への鉤形の路地を入ると、鮒の甘露煮で知られる「ぬた屋」。 創業は明治30年。 御茶屋口からの路地の先は、古河城諏訪曲輪跡に沿った道となる。 右手は古河歴史博物館と文学館。 諏訪曲輪跡地の南側は、鷹見泉石記念館。 建物は寛永10年築の武家屋敷で、古河藩家老で蘭学者だった鷹見泉石が、最晩年を過ごした家。 日光街道旧道から肴町に入ると、大きな店蔵を構える「坂長」。 店蔵は古河城の文庫蔵を移築したもので、江戸期には両
日光街道 4日目-04 2019.8.20茶屋新田の日光街道旧道は、古河城主永井氏によって松が植えられ、中田の松原として知られた。 最盛期には小金井付近まで続いたという。 今は松は失われたが、幅広い歩道が並木敷の痕跡という。 日光街道旧道は原町に入る。 自治会館先の交差点角に、祭礼道を示す標柱が立つ。 ここは古河城下の南の入口となる原町木戸の跡地で、城下の雀神社の祭礼の際、旅人が城下に入らずとも済むように迂回させた道が祭礼道で、交差点を右へ入る道がそれに当たる。 日光街道
日光街道 4日目-03 2019.8.20日光街道旧道左手に中田宿の鎮守、鶴峯八幡宮。 源頼朝が富士川の合戦に勝利した翌年の養和元年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したことに始まるという。 中田宿の街並みと同様、鶴峯八幡宮ももとは利根川河川敷にあったが、大正元年の利根川改修により、今の地へ移されている。 日光街道旧道はJR宇都宮線の日光街道踏切へ。 踏切手前を右へ入る道が、元栗橋方面へ通じた古道で、栗橋関所を避ける廻り道。 古くは大山道の一部ともいわれ、道に沿って大山の地名が今も
日光街道 4日目-02 2019.8.20利根川橋で利根川を渡る。 江戸期に栗橋宿と対岸の中田宿を渡したのは、房川渡し。 日光街道の整備以前に幸手と元栗橋を渡したのが渡船の始まりで、後に街道の付け替えとともに渡河地点が栗橋宿へ移り、渡船場は栗橋関所のすぐ下に置かれていた。 利根川を渡ると、茨城県。 栗橋宿と中田宿を渡した房川の渡し。 「房川」とは、栗橋宿の渡船場付近に宝泉寺という法華坊があり、「坊前」が転訛したものとする説がある。 栗橋関所は、正しくは「房川渡中田御関所」
日光街道 4日目-01 2019.8.208月は佐久の中山道を中心に歩いてきたが、和田峠を目前に控えてひと休みとし、日光街道の旅4日目へ。 スタートは栗橋宿。 栗橋駅入口交差点を過ぎると、日光街道旧道は宿の北部へ。 商店街の合間に古い商家がいくつか残る。 旧道右手には吉岡燃料店。 日光街道旧道左手には、橋原屋。 江戸末期の建物。 明治期には燃料店を営んだという。 栗橋宿は、源義経の愛妾静御前の終焉の地として知られる。 文治5年、静御前は義経を追って奥州へ向かう途中に義経の