雑司が谷散人

2016年11月から東海道を歩き始めて以来、あちこちの街道歩きを楽しんでいます。 今ま…

雑司が谷散人

2016年11月から東海道を歩き始めて以来、あちこちの街道歩きを楽しんでいます。 今まで歩きながら撮り溜めた写真など、街道歩きの軌跡を記録として整理したく、このページを立ち上げました。 古いものから時系列に紹介していますので、内容が最新ではないこと、ご容赦下さい。

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  • 雑司が谷散人の街道遊歩<東海道編>

    2016.11.6~2018.12.18 全29日の東海道遊歩の記録

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雑司が谷散人の街道遊歩 街道別→歩いた日別の目次

東海道

    • 雑司が谷散人の街道遊歩 0916

      日光街道 4日目-03 2019.8.20日光街道旧道左手に中田宿の鎮守、鶴峯八幡宮。 源頼朝が富士川の合戦に勝利した翌年の養和元年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したことに始まるという。 中田宿の街並みと同様、鶴峯八幡宮ももとは利根川河川敷にあったが、大正元年の利根川改修により、今の地へ移されている。 日光街道旧道はJR宇都宮線の日光街道踏切へ。 踏切手前を右へ入る道が、元栗橋方面へ通じた古道で、栗橋関所を避ける廻り道。 古くは大山道の一部ともいわれ、道に沿って大山の地名が今も

      • 雑司が谷散人の街道遊歩 0915

        日光街道 4日目-02 2019.8.20利根川橋で利根川を渡る。 江戸期に栗橋宿と対岸の中田宿を渡したのは、房川渡し。 日光街道の整備以前に幸手と元栗橋を渡したのが渡船の始まりで、後に街道の付け替えとともに渡河地点が栗橋宿へ移り、渡船場は栗橋関所のすぐ下に置かれていた。 利根川を渡ると、茨城県。 栗橋宿と中田宿を渡した房川の渡し。 「房川」とは、栗橋宿の渡船場付近に宝泉寺という法華坊があり、「坊前」が転訛したものとする説がある。 栗橋関所は、正しくは「房川渡中田御関所」

        • 雑司が谷散人の街道遊歩 0914

          日光街道 4日目-01 2019.8.208月は佐久の中山道を中心に歩いてきたが、和田峠を目前に控えてひと休みとし、日光街道の旅4日目へ。 スタートは栗橋宿。 栗橋駅入口交差点を過ぎると、日光街道旧道は宿の北部へ。 商店街の合間に古い商家がいくつか残る。 旧道右手には吉岡燃料店。 日光街道旧道左手には、橋原屋。 江戸末期の建物。 明治期には燃料店を営んだという。 栗橋宿は、源義経の愛妾静御前の終焉の地として知られる。 文治5年、静御前は義経を追って奥州へ向かう途中に義経の

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        • 雑司が谷散人の街道遊歩<東海道編>
          310本

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          雑司が谷散人の街道遊歩 0913

          中山道 11日目-08 2019.8.10国道142号から左へ分かれる中山道旧道。 大出の集落に入る。 大出の集落の先で、中山道旧道は国道142号に合流し、しばらくは国道を南へ進む。 依田川を渡る一之橋の前後に、僅かに旧道区間が残る。 一之橋の少し先で、国道142号の左へ分かれる草道が、天保年間にルート変更される前の古中山道。 山中に取り残された廃道かと思いきや、通行可能のようなので、まずはこれを進む。 森の中へ入る古中山道。 僅かに石畳の痕跡が残る場所もある。 心地

          雑司が谷散人の街道遊歩 0913

          雑司が谷散人の街道遊歩 0912

          中山道 11日目-07 2019.8.10和田宿中町から上町へと住む、中山道旧道。 左手に旧庄屋宅という本亭旅館。 近年まで中山道を歩く旅人に親しまれたが、すでに廃業している。 中山道旧道左手には、立派な卯建を上げた商家「よろずや」。 和田宿ではこうした商家で残るのは、ここだけか。 右側には店蔵が並ぶ。 上町の家並みを抜けると、和田宿も終了。 和田峠へ向かう旅人を見送ってきた古民家。 和田宿の南には、鍛治足の集落が続く。 鍛治足交差点で、中山道旧道は国道142号へ。

          雑司が谷散人の街道遊歩 0912

          雑司が谷散人の街道遊歩 0911

          中山道 11日目-06 2019.8.10問屋跡の隣りは、旅籠「大黒屋」。 安政年間以降は、穀物商を営んだ店。 旅籠跡の建物ばかりが目立つ中に、大きな蔵造りも。 和田宿の中心、中町に入ると、中山道旧道右手には旧名主羽田家跡。 中町の中山道旧道左手に、和田宿本陣。 宿の大半の建物と同様、文久元年3月の大火で焼失した後、同年11月の和宮降嫁に間に合わせる為、急遽再建されたもの。 和田宿本陣として今も残るのは、本陣長井家の主屋で、明治12年から戸長役場となった後、昭和59年

          雑司が谷散人の街道遊歩 0911

          雑司が谷散人の街道遊歩 0910

          中山道 11日目-05 2019.8.10和田宿の中山道旧道が右へ大きくカーブすると、右手に八幡社。 江戸中期の建立で、和田城主の居館の鬼門除けだったという。 和田宿、新田地区の中山道旧道。 中山道旧道は、追川を渡る追川橋へ。 これより和田宿下町に入る。 中山道旧道右手に、旅籠「かわち屋」。 文久元年3月の大火で焼失も、和宮降嫁の予定が決まっていた為、すぐに再建されたもの。 この先の本陣、脇本陣も同じ事情。 和田宿では比較的大きな旅籠で、今は歴史の道資料館となっている。

          雑司が谷散人の街道遊歩 0910

          雑司が谷散人の街道遊歩 0909

          中山道 11日目-04 2019.8.10芹沢の集落に入る中山道旧道。 上り坂が少し急になると、左手に「是より和田宿」と刻まれた大きな自然石の碑。 中山道旧道右手の和田中学校手前に、和田埜神社の鳥居が建つ。 中学校裏手奥にある和田神社の一の鳥居と思われ、参道は消滅しているようだ。 「和田埜」は和田神社の旧称。 中山道旧道右手に和田中学校。 山を背に建つ昭和26年築の木造校舎。 学校としては平成29年3月で廃校に。 和田宿は江戸から28番目の宿。 難所、和田峠を控え、次の

          雑司が谷散人の街道遊歩 0909

          雑司が谷散人の街道遊歩 0908

          中山道 11日目-03 2019.8.10中山道旧道左手に、三千僧接待碑などの石塔群。 もとは「一千僧」で、後から「三」に改刻されたものという。 中山道旧道、上組の農家。 上組の中山道旧道に残る、国道時代のキロポスト。 上組の集落にも、道祖神や馬頭観音などの石塔が次々と現れる。 中山道旧道左手に、木立に囲まれた若宮八幡。 江戸初期のもの。

          雑司が谷散人の街道遊歩 0908

          雑司が谷散人の街道遊歩 0907

          中山道 11日目-02 2019.8.10国道142号青原交差点から右へ、中山道旧道が分かれる。 左手が公園のように整備され、中山道の案内板などがある中、整然と並ぶ石塔群。 このあたりにあったものが集められたものか。 依田川左岸の中山道旧道。 茅葺屋根のバス待合所。 中山道旧道左手に天王常夜燈。 寛政12年のもの。 このあたりには中組の地名がある。 中山道旧道は中組から上組へ向かう。 緩やかな上り坂が続く。 中山道旧道は上組の集落へ。

          雑司が谷散人の街道遊歩 0907

          雑司が谷散人の街道遊歩 0906

          中山道 11日目-01 2019.8.10中山道の旅、11日目。 再びJRバスで上田から長久保へ戻り、長久保宿横町の外れがこの日のスタート。 依田川右岸の国道142号を進むと、四泊の旧道が右へ分かれる。 四泊の旧道に入ってすぐ、一里塚跡の案内板がある。 昭和35年までは榎の大木が残っていたようだ。 大和橋交差点から落合地区に入る。 ここは依田川と大門川の合流点で、落合の地名もそれ故か。 中山道旧道は落合橋で大門川を渡る。 大門川の落合橋から依田川の落合橋へ向かう中山道旧

          雑司が谷散人の街道遊歩 0906

          雑司が谷散人の街道遊歩 0905

          中山道 10日目-20 2019.8.9中山道旧道右手に美しい本卯建を見せる商家は、「釜鳴屋」竹内家住宅。 江戸初期から昭和初期まで続いた酒造業で、町家としては長野県最古のもの という。 妻壁を一段高く突き出させて小屋根を付けた本卯建が、街道からもよく見える。 釜鳴屋の向かい側には、小林家住宅。 長久保宿の問屋で、建物は明治3年の火災で焼失後に建て直されたもの。 2階部分の出格子が美しい。 竪町から横町への曲がり角に、旅館「濱田屋」。 明治期から今も営業を続ける旅館。

          雑司が谷散人の街道遊歩 0905

          雑司が谷散人の街道遊歩 0904

          中山道 10日目-19 2019.8.9長久保宿には、上田から善光寺へ通じた上田道との分岐点があり、宿は東西方向に伸びる「竪町」と、南北方向の「横町」からなるL字型をしている。 松尾神社から入る竪町は、宿の中心に向かって緩やかに下っていく。 中山道旧道右手に吾一庵。 江戸末期の農家で、馬の取り継ぎもしていたという。 吾一庵の先には、江戸末期の旅籠「丸木屋」。 板葺き石置きの屋根が復元されている。 中山道旧道左手には、長久保宿歴史資料館となっている「濱屋」。 明治初期に旅

          雑司が谷散人の街道遊歩 0904

          雑司が谷散人の街道遊歩 0903

          中山道 10日目-18 2019.8.9石荒坂の土道から旧国道に合流すると、道には国道時代のキロポストが残る。長久保宿まで、あと少し。 石荒坂を下る中山道旧道は、そのまま松尾神社の境内に入る。 京都の酒造神松尾神社を勧請したという、お酒の神様。 社殿の前に「御柱」が立ち、諏訪大社と同様に式年遷宮が行われていることが分かる。 松尾神社境内を抜けると、五十鈴川を渡る松尾橋。 中山道旧道は長久保宿へと向かう。 松尾橋の先に、松尾神社の鳥居。 長久保宿側が松尾神社の表参道。

          雑司が谷散人の街道遊歩 0903

          雑司が谷散人の街道遊歩 0902

          中山道 10日目-17 2019.8.9小諸藩の植えた松並木は、当初は笠取峠までの約1.6キロに及んだというが、今もこのうち約1キロが残り、旧街道の趣を残している。 松並木を抜けると、中山道旧道は国道142号へ合流し、笠取峠への上り坂が続く。 国道142号の長い長い上り坂の先に、ようやく笠取峠のピーク。 往時は相当な急勾配の山道だったと思われるが、あまりの急坂に夏場は旅人が笠を取って汗を拭ったことから、笠取峠の名があるという。 笠取峠のピークを過ぎ、右に峠の茶屋を見なが

          雑司が谷散人の街道遊歩 0902