慶長6年(1601)3月23日は家康が関ヶ原の戦いの戦後処理をほぼ終わらせ大坂城西の丸から伏見城へ移った日。鳥居元忠が籠る伏見城は前年の西軍との戦いで落城。家康は再建を命じ藤堂高虎により翌年末に完成。人質時代からの側近元忠が死を覚悟して残った城にどんな想いで移ったのでしょうか。
慶長5年(1600)7月29日は石田三成が佐和山城を出陣した日。2日後家康の重臣鳥居元忠が籠る伏見城は半月掛かりで落城。各地で東西両軍が勝ち負けを繰り返し9月15日の関ヶ原の戦いを迎える。見える結果に至るまでどんな途中経過があったか。何事もその瞬間だけで決まるものではないですね。
慶長5(1600)年6月18日、家康が上杉景勝討伐のため伏見城を出陣した日。ここから3ヶ月後に関ヶ原の戦い。城の守備は家康人質時代から仕える老臣鳥居元忠とわずか兵1800。8月に西軍に攻められ元忠は討死しますが、敵中の城といえる場所に残ったのは最初から覚悟はあったのでしょうね。
慶長5(1600)年6月18日は家康が上杉景勝討伐のため伏見城を出陣した日。城の守備は家康の人質時代から仕える老臣鳥居元忠とわずか兵1800。石田三成らのいわゆる西軍が挙兵し一月後には約4万に包囲され半月の籠城の末に元忠は討死した。その一月後反転してきた東軍と関ヶ原合戦を迎える。