丘田両兵衛(戦国逸話からの問い)
戦国時代、旧暦の今日何があったのか366日分つぶやきました。
こんにちは、両兵衛です。 書いた記事をプロフィール用にできるということを知ったので、私、丘田両兵衛が戦国逸話好きになったきっかけと育った土地について書いてみます。 好きのきっかけ小学校で日本史の授業がはじまるのは6年生くらいだったでしょうか。私は、よく教科書から脱線して偉人の逸話を話してくれる先生に教わりました。高校の先生は芸能界や漫画(先生の愛読書は毎週のジャンプだそうで)の話を歴史上の事件と結び付けて面白おかしく話してくれるので、生徒みんが煽ってなかなか教科書が進みま
もともとnoteの140文字のつぶやき機能に戦国時代に旧暦の今日の日付で何があったか思い付きで投稿したのが2022年6月10日。 吹き出し画像を作ってインスタでも投稿してみたのが2023年2月19日。 誰に強要されるわけでもないのですが始めたら止めるわけにはいかず、何があったか調べて投稿を日々続けてみました。 体調を崩して高熱で寝込んだ日にもこれだけは止めずにできてよかったぁ。 で、どちらも365日は続いたのですが、せっかく2024年は2月29日があるので今日まで続けてみ
天正6年(1578)2月29日は信長が安土城で近江国内の相撲取り300人を集めて大相撲を催し観戦した日。上機嫌な信長は特に優れた23人の力士に扇を与えた。中でも日野長光に与えた扇は骨に金銀で彩色がされていた。信長が相撲を楽しむ頃、播磨では別所長治が反旗を翻す異変が勃発していた。
天正9年(1581)2月28日は信長が御所東門外で諸将に馬揃を行わせ正親町天皇らが見物した日。南北8町にわたる馬場を新設した大パレードを挙行し天皇や公家衆さらにイエズス会の宣教師たちも見物した。馬揃の編成は丹羽長秀を先頭に10番組まで続いた。なかには公家衆や旧幕臣も含まれていた。
文禄3年(1594)2月27日は秀吉が関白秀次や諸大名ら総勢5000人を連れ吉野で花見の宴を催した日。徳川家康、前田利家、伊達政宗ら武家のほかに菊亭晴季ら公家や里村紹巴ら連歌師も参加した。5日間の滞在中に29日の歌会まで3日間はさんざんな雨だったため僧侶たちが晴天祈願をした。
天文22年(1553)2月26日は今川義元が分国法の今川仮名目録追加21ヶ条を制定した日。父氏親が27年前に制定した今川仮名目録で対応できていない分野の補充を行った。21ヶ条のうち6ヶ条は家臣統制に費やされ寄親寄子制に関する規定が追加。一世代の間に生じた問題に対処するためだった。
慶長5年(1600)2月25日は家康の命により閑室元佶が伏見で校訂した伏見版「貞観政要」が刊行された日。唐の皇帝太宗と臣下たちの政治問答の記録で古来から帝王学の教科書とされてきたもの。足利学校の庠主だった元佶はこの7ヶ月後の関ヶ原の戦いにも家康に随行し戦の吉凶を占ったという。
慶長15年(1610)2月24日は安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯が72歳で死去した日。能登七尾城主畠山氏の家臣奥村宗道の子として生まれた。長谷川宗清の養子となり宗清や雪舟の弟子の等春から絵を学んだ。秀吉や千利休に重用され現在国宝に指定されている「松林図屏風」など残した。
天正9年(1581)2月23日はイエズス会巡察師ヴァリニャーノが信長に黒人奴隷を献上した日。肌を黒く塗っているのではと疑った信長は体を洗わせたという。気に入った信長は26~27歳の青年に弥助と名付け武士として側近にした。本能寺の変では二条新御所へ走り織田信忠のため戦い捕縛された。
文明7年(1475)2月22日は安祥松平家初代の松平親忠が勢誉愚底を開山として浄土宗大樹寺を創建した日。大樹寺の創建は井田野合戦における戦死者の亡霊を鎮めるためのものとも鎌倉時代以来の大寿寺という寺院の再建だったともいわれる。松平家・徳川将軍家の菩提寺で歴代将軍の位牌を安置する。
天正14年(1586)2月21日は秀吉が旧大内裏跡に聚楽第の造営を始めた日。関白秀吉の政庁兼邸宅として翌年9月完成。後陽成天皇の行幸も迎えるなどした。後に関白を譲った甥秀次の邸宅となる。秀次事件により秀次の切腹と一族の処刑とともに完成から僅か8年で秀吉は聚楽第を徹底的に破却した。
慶長12年(1607)2月20日は出雲阿国が江戸城でかぶき踊りを披露した日。かぶき踊りとは戦国末期現れた奇抜な恰好で常軌を逸した行動する「かぶき者」たちの恰好や仕草を取り入れた踊り。ここから江戸時代を経て現在の歌舞伎へ形を変えていったことから2月20日は「歌舞伎の日」とされる。
永禄4年(1561)2月19日は徳川四天王の一人・井伊直政が遠江国井伊谷近くの祝田で生まれた日。父直親の養父で当主直盛が前年の桶狭間の戦いで戦死し翌年には直親が謀反の嫌疑で今川氏真に謀殺される。井伊氏は衰退したが直盛の娘次郎法師(直虎)に育てられた直政は家康のもとで頭角を現す。
慶長9年(1604)2月18日は毛利輝元が指月山に萩城の築城を許され開始した日。輝元は山陽山陰8ヶ国を有し安芸国の広島城を居城としていた。関ヶ原の戦いで西軍総大将を務めたため減封。隠居し家督を秀就に譲る形で周防・長門2ヶ国を安堵された。広島城に代わる居城を築く許可を幕府から得た。
永禄9年(1566)2月17日は足利義輝の弟・覚慶が還俗し義秋と名乗った日。永禄の変で将軍である兄が殺害され覚慶は興福寺に幽閉。近江に脱出して還俗し義秋を名乗った。越前朝倉氏の庇護下で義昭と改名。信長と上洛して将軍に就任するも対立し追放された後に関白秀吉に臣従し将軍職を返上した。
文明6年(1474)2月16日は一休宗純が後土御門天皇の勅命で大徳寺の住持に就任した日。応仁の乱によって伽藍のほとんどが焼失していた。住持になったものの寺内には1日いただけで薪村の酬恩庵に住んだという。しかし堺の豪商尾和宗臨や淡路屋寿源らの援助で5年後に主要な堂宇を完成させた。