歴史小説「Two of Us」第3章J‐31
~細川忠興父子とガラシャ珠子夫人の生涯~
第3章 本能寺の変以後から関ヶ原合戦の果てまで
(改訂版は日本語文のみ)
The Fatal Share for "Las abandonadas"
J-31 ~Team EAST vs Team WEST~
当時細川忠興は、丹後29万石宮津城主、および飛び地豊前豊後4万石中津城杵築城領主である。
だが、勝竜寺城時代以来長岡姓を名乗っていて(幼名は熊千代)、この時期には「越中守与一郎忠興」が、通称。のちに、九州肥前肥後へ改易後再び、細川姓を名乗るのだ。
ーーー大坂玉造の、細川邸。
本殿の一番広い座敷間には、3名の細川家臣と2名の女官、そして1名の侍女だけが、あなたガラシャ珠子によって招集されていた。
この広間は別名〈サラ・デ・ビジタ〉と呼ばれていた。
戦に出ていない時期や出陣前には、必ず珠子の〈サラ・デ・ビジタ〉へ挨拶に来る家臣のリーダーも居た。忠興以外にも、あなた珠子を恋慕う武将や家臣が、存在している。
忠興の盟友伊達政宗も、自作のアロマや香水を生涯にわたって贈答し続けている。忠興の了解済で。お手打ちにした36名の家臣の中にも、忠興が横恋慕を許せなかった者さえ、居たかもしれない。
あなたガラシャ珠子は、彼らの心根を知ってか知らずか、とても主体的に主人忠興とは違えた形で、彼らの思慕を受け入れていた。
洗礼名「Gracia」の通りに、神の慈悲や恵みのようにあろうと心がけ、また慈愛や包容力で、主忠興も含んだ戦国を生きる闘将、騎士達、男女の区別なく侍従する者達を癒し、励まし、または内助を続けた。
主忠興の友として池田輝政や谷衛友、古田織部、高山右近、加藤嘉明など。そしてそんな珠子に共感し、慕うのは男性の武将達だけではない。
松平元康(のちの徳川家康)の正室からも直に書状を頂く仲であり、伊達政宗は言わずもがなで、正室とは交し合う書状も返信を何通も重ねていた。
ただ、宇喜多家に嫁いだ豪姫だけは、豊臣との絆があるせいか、公明正大に三成側か家康側かに傾くことなく、忌憚のない発言でつかず離れずの態度を貫いていた。
石田三成の耳にはその情報が届いていたのかもしれない。
あなたの長男忠隆は、元服後忠興と共に西側毛利氏や島津氏、大友氏と対峙し、次男興秋(興之丸)は仏門に入っていた。
唯一大坂玉造屋敷で誕生した三男忠利(のちの熊本城主)は、家康側への忠誠として人質となり、松平屋敷にて離れて暮らしていた。家康は丁重に嫡男忠利を扱い、武将としての帝王学を嫡孫達の傍で学ばせていた。
そのような折に、あなた珠子は〈サラ・デ・ビジタ〉へ本件の具体策を伝える人達を呼び寄せたのだった。
石田三成からはさらに、第3報の書状が届いていた。
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