石田三成屋敷
石田三成は、荒廃していた佐和山城の大改修を行い、山頂に五層(一説に三層)の天守を築いた。当時の落首に「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」(史料①『古今武家盛衰記』)とある。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康が、
「佐和山を訪ねてよいか? また星について語り合いたい」
と言うと、石田三成は、
「御遠慮願う」
と無下に断っていた。
白兎の徳川家康にしたら、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と詠われた素晴らしい佐和山城を単純に見たかったのであろうが、実際は質素な城であったという(史料②『甲子夜話』)。また、狸の徳川家康にしたら、敵対する可能性があるので、縄張りを見ておきたかったのであろう。
実際の佐和山城を見たいものであるが、井伊直政が徹底的に破壊したので、当時の様子がよく分からない。佐和山の石田屋敷跡へ行ったら、石碑が立っていなければ見落とす程、狭かった。そもそも石田三成には、伏見城治部少丸に石田三成屋敷があり、佐和山城には、父・石田正継が城代として住んでいた。
「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」の意味は、「石田三成にはもったいないもの(「猫に小判」のようなもの)が2つある。優秀な軍師は、事務仕事をしていて戦わない石田三成には必要ない。立派な天守がある城も、住んでいないので必要ない」という意味であろう。
また、閏3月4日の「七将襲撃事件」の時、石田三成は、大坂の石田三成屋敷ではなく、伏見城治部少丸の石田三成屋敷に逃げ込んでいる。この理由は「伏見城治部少丸の石田三成屋敷の方が堅牢だったから」とされているが、この伏見城治部少丸の石田三成屋敷も質素だったという。表向き(入口付近)の寄付(よりつき。数寄屋)と広間(書院)は黄金の間で、煌びやかであったが、奥座敷は雨漏りがして、障子の破れた箇所には障子紙ではなく反古紙(書き損じた紙)が貼ってあった。「七将襲撃事件」後にこの伏見城治部少丸の石田三成屋敷に入った井伊直政の家臣たちが「見苦しい」と悪口を言っているところに井伊直政が来て「奥座敷には住んでいた形跡がない」と言ったという(史料③『井伊直政御一代記』)。(大坂の石田三成屋敷は空き家となっており、9月9日の重陽に際し、徳川家康が宿所にしている。)
石田三成にとって、伏見城治部少丸の石田三成屋敷とは「寝るための場所」、今で言えばホテルであって、接待用の茶室と寝室の2部屋あれば十分で、奥座敷は必要なかったようである。石田三成は、仕事場(伏見城、大坂城)を、家だと思っていたのであろう。
■史料①『古今武家盛衰記』
※島左近:島左近允勝猛(かつたけ)とあるが、正しくは清興(きよおき)である。出身地不明。対馬国出身とあるが、最初の主君が筒井順慶であることからも、大和国出身だと考えられている(近江国出身説もある)。また、1万石の俸禄で召し抱えたとあるが、当時、禄高4万石の石田三成が、半分の2万石を与えたとされ、「君臣禄を分かつ」の逸話として伝えられている(『常山紀談』)。
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