私が生涯をかけて設立した財団も、今年で20周年を迎えた。思えば、ずいぶん時が経ったものだ。 財団設立当初、私はまだ30代だった。正直若かった。人に会うたび、嬉しいことに「成瀬さんは若いですね」と言われたりもした。
16 源氏物語今、大河ドラマで取り上げられいる「源氏物語」に、注目が集まっている。それは、作者の紫式部という女性が、謎めいているせいなのか?は、わからない。この時代の女性は、役職などや何々の娘と呼ばれていて、それが残り、本名などでは残らなかった。名前がやっと残っているのは、私は北条政子や日野富子のような政治に関わった女性であり、大体主に名前が残るのは、江戸時代に入ってからだったように思う。 今までの大河ドラマは、戦国時代の物語に、多くの視聴率が集まってきたため、その時代を取り
昨日今日と、城前の樹木の剪定があった。メインは、先日お話した「夫婦樟」だ。どうも話によると、5年くらい、何もせずにほったらかしにしていたようだ。時間をさかのぼると、やはりあのコロナ禍がどうも影響していると考える。本当に「コロナ感染症」の影響は大きい。しかし、近年はインバウンドのおかげか、犬山城の入城者は、ありがたいことに「コロナ感染症」以前に戻って来ている。 城下町から犬山城はなかなか見えないと苦情をいただくことがたびたびだ。しかし剪定や伐採すると、また見栄えが悪いなどの苦
1 駿府生まれ成瀬家の2代当主であった正虎は、幼少の名前を小平次といった。彼は、駿府生まれとなっている。彼が生まれた時、既に父の成瀬正成は、主君である徳川家康公の側近として頭角を表しだし、おそらく家康公と共に、江戸に居たと思われる。家康公の江戸下向は、突然だったと言われていて、彼の側近たちは、多分家族を伴う時間もなかったのだと、考えられる。それに徳川の家臣たちは、また早い時期に、駿府に戻れるだろうと思っていたのかもしれない。不確定だが。だから旧所領地であった駿府に、家族を残し
15 たぬき父は、たぬきが大好きだった。 その事をこの時期に思い出したのは、久々に放送されたアニメーション映画に、あったのかもしれない。 そのアニメーション映画も、父は大好きだった。
14 おはぎ8月は「盆」と「施餓鬼」で、仏の供養を行った家は多い。 9月は彼岸で、日本は再び、死者の霊を弔う。 また、こんな諺もある。「暑さ寒さも、彼岸まで」 昨年も9月の彼岸までは、確かに暑かったように思う。しかし彼岸の中日を過ぎた辺りから、過ごしやすくなったような気がした。
13 ほおずき8月13日は「盆の入り」だ。名古屋はこの「盆の入り」に墓参りが盛んなのか、いつもより多くの人を名古屋の墓石の中心?「平和公園」に、見かける。しかし今年、昼間は猛暑のせいか、人が少なかったような…私も犬山を朝出発したが、平和公園への道のりは遠く、なんとか午前中の到着であった。 既に歴代の墓までの手すりは暑く、墓石は燃えるようであった。
今犬山は、ロングラン花火大会の真っ最中だ。 この花火大会は、他のところとは特別、違うところがあり、人気がある。それは、国宝の犬山城天守と花火が、コラボレーションして見れるところだ。
私の癒しの1番は、もちろん「犬山城」だ。私の活力の源でもあり、誇りでもある。しかしこの「犬山城」、今まで成瀬家にとって、時にはプレッシャーにもなってきた存在でもあったような気もする。その気持ちは、きっと徳川将軍家から拝領して、私の代までの400年間以上にも及んでいたと考えられる。
#創作大賞2024 #エッセイ部門 武家は力士を好んだ。その伝統で、成瀬家も相撲が好きだった。江戸時代の記録はないが、父は曽祖父の時から相撲が好きだったと言っていた。私にも「推し」がいる。 彼は現役時代から、笑顔の似合うやつだった。私が可愛がっていた力士の同期でもあった。 彼に会ったときの私は、人に連れていってもらった銀座のあるおでん屋を、贔屓にしていた。贔屓の力士は、ことのほかこのおでん屋が大好きで、いつも食事をご馳走すると言うと、毎回そこを指定してきた。そこにある時「一
犬山城の城前広場には、色々な木がある。 時々私に直接、城下からお城が見えにくいなんていう問い合わせもいただく。そして私が普通に城下を歩いていても、呼び止められ、苦情の如く、城山の樹木のことを言われる事が多い。
12 茶の湯成瀬家には、茶の湯の才能を持ち合わせていない…と思う。 お茶に関して記述があるのが、最初が京都で、2代正虎。彼が参加した記録のある茶会は、かの有名な茶人小堀遠州の茶会だった。どうも彼は恐ろしいことに、詰を務めたらしい。勿論、正客は尾張藩主の義直公。次客が竹越正信だったか。この当時の成瀬家は、確か正成の喪が明けたばかりで、付家老としてはもう1家の竹越家の方が立場が上であった。しかしそんなことではなく、2代正虎の茶の湯のセンスは、性格的に一切なかったと私は思っている。
11 政治家最近色々な分野で、政治家の資質を問うような問題が起こっている。内容を聞くと、とても残念な内容が多い。あまりに今の時代、問題になってる事を、政治家は知らなすぎるような気がする。昔の殿様は、知らなくて良いことは、家臣は知らせない風潮があったが、それが公になった時、殿様が責任を取り、藩は改易となって、殿様は腹を切る。殿様が腹を切らない場合は、家老、尾張藩では成瀬家のような家がその役割だ。
財団にある掛軸の中に、私のお気に入りで「眠れる虎」が描かれている掛軸がある。この掛軸の虎の姿を見るたびに、私は「2代正虎」を思い出す。 彼は「徳川家臣団随一の忠義の臣」と呼ばれた、初代正成の長男だ。彼は珍しく、正室の生んだ子供だ。正成には、記録上側室はいない。だから立場を考えると、彼はすごく大切に、育てられても良い人物だ。ところが幼い時に、生母を駿府で亡くしてしまうところから、不幸が始まった。そして彼は、長男としては、波乱の生涯を歩むことに、なるのである。 彼の御伝を見ると
10 私の推し 私の推しは、なんと言っても犬山城だ。しかし当の犬山城は、どうも私が嫌いなようだ。 犬山城は、国宝だけあってプライドが高い…と私は思っている。犬山城の創建年代は、室町時代末期であり、世の中が乱世・戦国時代になりたての頃だ。 また犬山城は、日本最古の城というプライドも持っている。その犬山城が、個人所有末期から現在に至るまで、400年以上を共に時代を乗り越えて来た成瀬家のお城番が、こともあろうに女性の私になってしまったのだ。 戦国時代を生き抜いてきた城としては、サ
今年(令和6年)犬山祭も無事終わった。2日間雨が降らなかったのは、私が知っているなかでも少ない。私の記憶では、父の亡くなった年が、珍しく2日間晴れて、周りからは「最後のお殿様のご褒美」と言われたことに驚きながら、東京の密葬を終えたような気がする。父は「晴れ男」だったが、亡くなってからの法事は、雨が多く、不思議だ。