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蓮實重彦 『表層批評宣言』 : 「わかった」という罠から逃れよ。

書評:蓮實重彦表層批評宣言』(ちくま文庫)

いよいよ、蓮實重彦に対する評価を改めなければならない時が来た。私は、蓮實に対する評価を誤っていた。
どう誤っていたのかと言うと、とにかく「賢いけど、嫌味な奴」だから「大嫌いだ」とそう評価してきたのだ。要は、その「性格」と言うか「人柄」と言うか、そこの部分に対する強い「悪印象」が抜きがたくあって、蓮實の「頭の良さ」や「書いていること(主張)」は否定しないけれど、とにかく「嫌な奴だから嫌いだ」ということだったのである。

だから、先日の『反=日本語論』のレビューにも書いたとおり、 四半世紀も前の高校生の頃に、蓮實の『物語批判序説を読み、かなり高く評価していたにも関わらず、それ以降は、つい最近まで、蓮實の著作を読んでいなかった。
『物語批判序説』を読んで以降のどこかの段階で、蓮實に対する決定的な悪印象を持ってしまい、それで読む気が起こらなくなっていたのである。

そんな蓮實重彦関連の著作として次に読んだのは、柄谷行人編『近代日本の批評』シリーズだった。3年前のことである。
これはもっぱら「日本の文芸批評史」の勉強をしたくて読んだもので、蓮實重彦を読みたくて読んだわけではない。 このシリーズは、柄谷行人浅田彰蓮實重彦三浦雅士などによる討論座談会本であり、この頃、私はすでに柄谷行人と浅田彰には好感を持っていたから、蓮實重彦は、言うなればオマケみたいな感じでしかなく、さらに言えば「なんでこいつが入っているの?」という感じだったのだが、ここでの蓮實の発言については、特に悪印象も無く、と言うか、むしろ至極まともだったので「こいつ、猫を被ってやがるな」という印象さえ私は持ったのであった。

そしてその次に読んだのが、筒井康隆との対談本『笑犬楼 vs.偽伯爵』だった。
だが、これには、蓮實の嫌味ったらしさがよく出ていたので、私は「やっぱり、蓮實重彦というのは、こんなやつだった」のだという確信を持ってしまったのである。

したがって、普通ならこれ以上、蓮實重彦を読むこともなかった。
ところが、一昨年たまたま、ジャン=リュック・ゴダールの映画を初めて見て「なんだこれ?」と思ったのがきっかけで、ゴダールに興味を持ち、さらに映画というジャンルそのものにも興味を持った。
もともと自覚的なアニメファンであった私は、それまでは、実写映画にはほとんど興味がなく、たまに見るのは、バットマンやスーパーマン、マーベル・ヒーローものなど、特撮ヒーローアクションものに、ほとんど限られていたのだが、ゴダールに興味を持ったせいで、ゴダールを理解するためには「映画史」的な知識が必要のようだと考えて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」関連作品や、それ以前のサイレント映画まで見るようになり、ゴダールを強く押しているらしい蓮實重彦を読むことにもなったのである。

しかしだ、それでもなかなか、ゴダールの良さがわからなかった。
蓮實のゴダール関係の本、例えば『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』『ゴダール革命』などを読んでも、ゴダールのことがわからない。蓮實がゴダールを強く推しているというのはわかったが、その理由が私の腑に落ちることはなかったのだ。それにそもそも、蓮實重彦の文章は「難解」なのである。

で、私としては、蓮實の本を読むだけではなく、ゴダールの本を読もうと思い、同時に「蓮實重彦を理解する」ために、蓮實の初期著作を読むことにしたのである。
ゴダールについては、映画を見てもその魅力がわからないのであれば、その著作からゴダールの考えていることで読み解こうと考えた。このあたりは、私がもともとは「活字派」だからであり、蓮實重彦の初期著作を読もうと思ったのは、蓮實が今のように「嫌味ったらしく」なる以前の「初心」や「経緯」を知れば、蓮實の今のスタンスも理解でき、その内容も理解できるようになるのではないかと、そう考えたからである。

そんなわけで、蓮實重彦の映画関連本と並行するかたちで、映画には直接関係のない、初期の文芸批評書である『物語批判序説』を読み(読み終えたあとに、高校生の頃に読んでいたという事実が、当時の「読書ノート」で判明し)、次に『反=日本語論』を読み、そして今回、『表層批評宣言』を読んだのである。

私の目論見としては、最初から、この表層批評宣言』が本丸だった。
と言うのも、蓮實重彦の批評がわかりにくいのは、それが、この「表層批評」とやらいう特殊なスタンスに立ってなされるものであり、それは「映画」という「(奥行きを持たない)映像」というものとも関連しているのではないかと、そんなふうに睨んでいたからである。蓮實の「映画論」が、オーソドックスに映画の「内容」を論じるという態のものではなく、「ショット」がどうたらこうたらといった、映像面(絵作り)にこだわるのも、それは蓮實の批評における基本的なスタンスが「表層批評」だからではないかと、そう考えたのだ。
だが、この際「急がば回れ」で、いきなり『表層批評宣言』を読むのではなく、その前に『物語批判序説』と『反=日本語論』を読んでおき、準備万端ととのえた上で、本丸である『表層批評宣言』を読もうと考えたのである。

しかし、『表層批評宣言』を読む前に、当初の目論見とは違った、言うなれば「想定外の事態」が出来した。
それは、その前に読んだ『反=日本語論』において、「蓮實重彦って、けっこう良い奴じゃないか」と思ってしまったのだ。

だが、私が、蓮實重彦を嫌ったのには嫌ったなりの、それなりの理由はあったはずので、『反=日本語論』のレビューでは、その主たる原因である「笠井潔の悪影響ではないか」ということを書いたのだが、それにしても、私の「蓮實重彦観」が間違っていたのであれば、それは訂正されなければならない。
しかし、全面改正か一部改正かは、もう少しほかの本を読んでからだとそう考えて、予定どおりに本書『表層批評宣言』を読んだのだが、その結果、私は自身の「蓮實重彦観」を全面的に改正しなければならないと考えるに至ったのである。

その決定的な理由は、蓮實重彦の言う「表層批評」は、そもそも私の考えていたようなものではなかったというのが判明したからだ。
私は、蓮實の「表層批評」とは、文字どおり、物事の「意味」や「深さ」を頭から否定して、「表層のみ」とするようなものだと想定していたのだが、そうしたものではないことがわかった。
それは本書の次のような言葉に、端的に示されている。

『 作者にそれなりの思想があり、「作品」にそれなりの意味がそなわっているのは当然のはなしだ。だが、思想は作者ではないし、意味もまた「作品」ではない。それは、読者が作者の「生」と「作品」の現在とを、抽象化することではじめて視界に浮上する問題であるにすぎない。それを理解する試みは決して無駄ではあるまいが、そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい退廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい。抽象と具体性とをとり違えることの不幸は、(※ 大江健三郎『ピンチランナー調書』で描いた)不倫という罪を背負って行き続けることの不幸などとは比較にならぬ絶対的な頽廃へと人を導くものなのだ。そしてその絶対的な頽廃とは、「生」の現在をいともたやすく虚構化したように「作品」の現存に脅える資質をおしげもなく放棄させる。そのとき「作品」は、その意味や作家の思想に従属し、あきらかに一人の作者がある目的を持って書いたものでありながらも、思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌として存在に迫ってくることをやめてしまう。読者は「作品」が作者に素直に所属すると思い、作者もまたその所属を当然と感じ、みずからの「作品」に脅える資質を放棄する。恐しいのは、この両者による脅える資質の均等なる放棄ぶりだ。というのも、作者=読者という対立が偽の葛藤にほかならなかった事実が、そこにあられもなく露呈されてしまうからである。何のことはない、彼らはともに「生」=現在が自分に所属し、思いのなりにそれを操作し統禦しうるものと錯覚しているのだ。恐しいことではないか。しかもそう錯覚することの恐しさがいとも簡単に忘れられ、真に恐れるにたるものが抽象化されうる環境を、思考の「制度」と呼ぶのである。そして、「制度」化された思考が脅える資質を放棄した対象として、「生」=現在と「作品」との同義語的な関係がひとまず明らかにされたと思う。だが、その関係はより積極的に明らかにされねばならない。』

(P140〜141、ゴシック強調は引用者)

つまり、ここで蓮實が言うのは、「作品」というのは「意味」や「作者の意図」に還元できるような貧困なものではないのに、そうした考え方が当たり前になってしまっており、「制度化」している。そうした安易な「制度」に人々は、安住してしまっている、ということだ。そしてこれは、いま流行りの「考察」に対する、私の苛立ちと同質なものだとも言えるだろう。

したがって、作品の「意味」を読み解いたり、「作者の意図」を読む取ること自体が、誤りなのではないということは、蓮實も認めているのである。
ただ、蓮實に言わせれば、そうした「読解=考察」などということは出来て当前のことでしかないのに、それで作品などの読解対象を「消費(消化)し尽くしてしまった」と勘違いさせ、そうした思い違いに縛りつけてしまう「制度」というものを、自明なものと考えてはいけない。「作品」とはもともと、「作者の意図」としての「意味」や「本質」といったものには還元できない、もっと豊かな「表層」なのだ、それは畏るべきものなのだと、大要そうした意味である。

『「制度」が恐しいのは、それが完璧なる秩序として世界を体系化し、さからいがたい磁力によって組織してまわるからではない。正当性を欠いた出鱈目さで世界を希薄化し、抽象的であるが故に完璧さを誇りうる(※ 虚構としての)風景を世界の顔に仕立てあげ、その顔、その表情、その姿でしかない薄っぺらな贋の表層を世界の自然なる相貌だと錯覚させる荒唐無稽な物語をあたりに蔓延させるが故に、それは恐しいのだ。』(P229)

つまり、「作品」とは、あるいは「現実」とは本来、捉えきれない「豊かさ」を持つものであり、それ故にこそ、その大きさ、捉えがたさを怖れて、その「現実」を矮小化しようとする「制度」が働き、私たちは、その「制度」が見せる「贋の表層」としての「贋の深さ」のようなものを信じ、それに安住してしまう。だが、それは、私たちの生を貧困化させるものなのだ、というようなことである。

したがって、蓮實重彦の言っていた「表層批評」とは、「本物の表層」に直面せよということであり、「制度」が見せるフィクションとしての「贋の表層」が備える「贋の深さ」に捉われることなく、対象を「ありのままに見る(ように努力しなければならない)」ということだったのである。
言うなれば、私たちは、私たちのものの見方を、強制的に歪めてしまう「制度」としての「意味」だの「深さ」だの「本質」だのといったフィクションに強いられて、対象を見誤ってしまい、そうした「制度」に従属させられてしまうのだが、そうではなく、それに「抵抗せよ」というのが、本書における蓮實重彦の主張なのだ。例えて言うならば、私たちが見ているのは、映画『マトリックス』(1999年)で描かれる「虚構された夢の中の現実世界」のようなものであり、もちろん「現実」そのものではない。
で、蓮實重彦は「目を覚ませ」と言い、さらに「目を覚ました先の世界が、またもや夢の世界である可能性を私たちは免れ得ないが、それでも、あれこれの手管を使って、そうした罠から逃走せよ」というのが、本書の趣旨だったのである。

くり返すが、蓮實重彦は、本来あたりまえに存在する「意味」や「深さ」や「本質」を否定したのではない。それらはすべて「表層」に見えているものなのだ。蓮實が否定したのは、そうした「表層」を隠蔽する、「虚構」された「制度」としての、「贋」の「意味」や「深さ」や「本質」なのだ。
「すべて(「意味」や「深さ」や「本質」といったことを考えるの)は、まずは、目を覚ましてからだ」と、そう訴えていたのである。

そんなわけで、いずれにしろ私は、こうした蓮實の基本的なスタンスを知らないまま、周辺情報や、ある種の「色眼鏡」で蓮實を見ていた。見誤っていたという事実が判明したので、これは改めざるを得ないと考えるようになったのである。

だから、ここで蓮實重彦に対し、明確に「ごめんなさい。あなたという人を見誤っていました」と謝罪しよう。

私は、「誤解していた」のではなく、あくまでも「見誤っていた」のだ。そもそも私は、蓮實重彦を「誤解」できるほど「知っては(読んでは)いなかった」のだから、私は「誤解した」のではなく、「誤ったイメージ」に感化されていたのである。
そして、それこそが、ひとつの「制度」としての「蓮實重彦観」だったのであろう。よく知りもしないのに、断片的なイメージだけで「嫌なやつ」だと決めつけてしまっていたのは、私が、そういうイメージへと誘導する「制度的な言説」に捕らわれてしまっていたからだとも言えるのだ。

私自身、「方法的」に「嫌なことを書く」のだと公言しておきながら、蓮實重彦のそれは、私のような「方法的」なものではなく、蓮實の人間性が、そのまま反映したものにすぎないと、そう「ご都合主義的」に理解してしまっていた。
だが、蓮實重彦の「嫌味ったらしさ」もまた、方法的なものだったのである。
それは、私には、ちょっとやり過ぎだと思えるし、もっと直球勝負でも良いのではないかとも思えるのだが、所詮はそれも「現状認識と好み」の違いであり、致し方のないことなのであろう。

ともあれ、本書を読むことで、私のこれまでの自身の「蓮實重彦観」が、「制度」によって「見せられていた夢」であることがわかった。
やはり、蓮實重彦は「私に似ていた」のだ。
それは順序が逆だと言われるかもしれないが、同じことである。
私は、蓮實重彦の真似をして「嫌なことを書く」ということを始めたわけではないのだから、言うなれば、時間差はあるにせよ、私と蓮實は、別々のルートを辿って、同様の「反体制的な方法論」に、たどり着いたのである。

そして、両者のそれが、本質的に同じものであるというのは、蓮實が本書や『反=日本語論』で、大岡昇平という作家を重視していることからもわかる。
蓮實は『反=日本語論』で、大岡の『萌野』という作品を重視して扱っていたし、本書でも、その『萌野』と『野火』を扱っていたのだが、私が「嫌なことを書く」ということを自覚的に始めたのも、これまで何度も引用してきたとおりで、大岡の次の言葉に、強く触発されたからである。

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』

(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

そんなわけで、蓮實重彦は、私に似ていたのである。そのことは、以前から気づいてはいたのだが、「表面的には似ていても、中身は違う」と、そう否認してきた。
しかし今回『表層批評宣言』を読むことで、そうした否認が、正当な根拠を持たないものだったことが明らかになった。
だから、私は自身の「蓮實重彦観」を改めなければならないし、今後は、基本的には、蓮實重彦を同志として、支援しなくてはならない。

では、これまで書いてきた「蓮實重彦批判」の文章や「蓮實重彦への悪口」は「どうするのだ?」と問われるだろうが、それはそのままにしておく。
それを読んで、蓮實重彦を誤解する人が出てくるかもしれないが、そもそも自分の目で蓮實の本を読んで判断することなく、他人の文章だけで、評価をするような奴は、つまり「以前の私」のような奴は論外なのだから、そんな奴は問題にしない。
それよりも「私は、以前はこんな誤ったことを書いていました」という証拠を残しておくことの方が大切である。その文章の末尾に、このレビューへのリンクも貼っておくのだから、「間違いを放置しておく」ということではない。それで、私の「蓮實重彦理解」への経路と経過を明らかにしておくのである。
そしてそれは、私自身、小林秀雄を批判したように、「後から、こっそりと訂正しておく」などという「ケチなこと」はしない、ということなのだ。人間に「間違い」は付きものであり、いつも書いているとおりで、「私だって万能ではない」し「無謬ではない」のだから、誤りに気づいたら、それをその時に率直に訂正すればいいのだ。そして、できるかぎり同じ誤りを繰り返さないように努力すればいい。

一一とは言え、「すべてを知ってから、おもむろに判断する」というようなことは、現実には「不可能」であり、人間はいつでも、不完全な情報を元にして「過渡的な判断」をしないわけにはいかない。そしてそれを、ある程度は信じなければ、一歩踏み出すことさえできないのだから、それは止むを得ないことでもある。

したがって私は、蓮實重彦評価に限らず、それと同様に、これまでも多くの誤った判断を下してきただろうし、今後もやはり同じような誤りを犯してしまうだろう。だが、そのこと自体は仕方がない。
私がしなければならないのは、不可能な「誤らないこと」なのではなく、「誤らないように努力する」ことであり、それでも誤ることはあるはずだから、それに気づいた時は、隠さずに、率直に、それを訂正して、必要な謝罪をすることなのである。
決してやってはならないのは、多くの人がそうであるように「誤ったことなどない振りをする」ことであったり、「誤ったことに関しては、口を噤んで無かったことにする」といったことなのだ。

だから、非凡な私は、そんなことはしない。ハッキリと「誤り」を認め、蓮實重彦には謝罪するのである。

ちなみに、私の認める「誤り」とは、「法的な誤り」のことではない、というのは言うまでもないことだ。
そうした、多くの人が承認している「制度」としての「正義」を基準にしての、そこからの逸脱としての「誤り」の話ではなく、私の中の「正義」を基準としての「誤り」に関しては、反省もし訂正もするという意味である。
つまり、私自身が心底納得しなければ反省も訂正もしないが、今回の「蓮實重彦観」の場合は、誰に指摘されたわけでもなく、私自身が自力で気づいて、自力で反省し訂正するのだ。

以降の文章は、オマケのようなものだが、本書『表層批評宣言』について、できるかぎり簡単に解説しておきたいと思う。

 ○ ○ ○

たぶん本書は、一般的には「難解」だとされているだろう。
だが、私にとっては、少しも難解ではなかった。なぜなら、ここで書かれていることは、私自身が常日頃から考えていたことの「理論的な突き詰め」に過ぎなかったからだ。

もちろん、細かい議論においてはわかりにくいところもあったけれど、基本的なところではよくわかった(共感できた)ので、その意味では、「わかった」と言えるのである。

では、本書にどのようなことが書かれていたのかというと、それは前述のとおり、人々は「制度としての偽の表面」に縛られた空疎な議論ばかりをくり返しているが、私たちは、そんな「夢」に欺かれることなく、物事の「表層」としての「ありのまま」をしっかり直視して、それを「ありのまま」に評価しなければならない、というようなことだ。

しかし、これは、言うほど簡単なことではない、というのも事実で、そうした「制度としての夢」は、私たちの「安心したい=わかったつもりになりたい」という本質的な欲望に由来するものであり、その意味では逃れがたい「自己欺瞞」の一種である。
だからこそ、私たちは「その自己欺瞞のなかで、贋の真実というものを考え見つける、お易いゲーム」に明け暮れてしまうのである。
そして、「それは夢だ!」と指摘する者(蓮實重彦や私)すらも、そうした夢からは、完全には逃れ得ないのだ。
「自分だけは逃れ得ている」と思うこと自体が、そもそも「安心を得るための、自分都合の幻想(夢)のなかに安住している」ということに他ならないからである。

したがって、そうした「夢からの逃走」は、「単に」あるいは「他人事のように」、「それは夢だよ、目を覚ませ」と言うだけではなく、そのように言っている自分自身も「夢を見ているのだ」という自覚を、常に持たなければ(反省しなければ)ならない。

この「夢からの逃走=表層への回帰」というものは、原理的に「不可能」なのことなのだが、しかし「それでも、抵抗せよ(目を覚ませ)」というのが、本書における蓮實重彦の主張であり、その方法論が「表層批評という不可能性への挑戦」なのだ。

「表層」に辿り着くことなど不可能だとわかっていながら、つまり「表層批評」の不可能性を理解していながら、それでも「制度としての意味」だの「本質」だの「深さ」だのといったことを拒絶し、「表層」において初めて、その「意味」だの「本質」だの「深さ」だのを探求しようとすることが、本当の「知」なのであるから、原理的には不可能でも、それでも抗え、易々と敵の手に落ちるな、そこに安住するな。一一要は、「気持ちよく、型通りに思考して終わらせるな。そうした思考の制度の裏をかき続けろ」というのが、本書の主張なのである。だから、おのずと「難解」にもなってしまうのだ。

「制度としての夢」の裏をかいたつもりでも、不可能なそれを「できた」と思ってしまうことが、そもそも「制度としての夢」に囚われている状態なのだから、私たちは常に「裏の裏の裏の裏…」をかき続けなければならない。だから、わかりにくいのだ。
「裏の裏」とは、単なる「表」にそっくりだからこそ、単に「制度」の従順に巻き込まれているだけにしか見えないということになるのもだが、「裏の裏」と単なる「表」は別物なのだ。なぜなら「裏の裏」とは、実のところ「裏の裏の裏の裏…」という「永遠の抵抗」であって、「表」が意味する「静的な順応」などではないからである(なお、本書で紹介される、ジル・ドゥルーズの「裏もまた、裏返せば表でしかない。つまり、裏は存在しない」というのは、また少し別の話である)。

こうした「制度としての夢=冷めているつもりで、制度に見せられている夢」とは、実例を挙げるなら、次に示すようなものである。

これはつい先日、私の「哲学書系のレビュー」に寄せられたコメントと、それに対する私のレスポンスなのだが、私はここで、このコメントを寄せてくださったかた個人を批判したいわけではなく、これが、ごく一般的な「制度としての夢=冷めているつもりで、制度に見せられている夢」の典型例として示したいだけなので、コメント者の名前は伏せさせていただく。

『 〇〇〇〇
はじめましてー
妹尾武治さんの書籍は読んだことがあるのですが、それと地続きになっている感覚があってとても興味深い内容だと感じました。
ただ、"あくまでも書籍における主旨について考えることは出来ても結局私たちは責任などの文脈の中で生きてしまうしその外側へ到達することは不可能だ"、というのは仏教における悟りなどが反例としてあげられるのではないかとも思いました。

悟りに限らず、自己効力感をあまり感じることが出来ず苦悩を抱え続けた場合にも"責任という虚構"を実感しながら生きていく可能性があるような気がします…

勿論大半の人々がそうはならないから社会は成り立つわけですが…

………………………………………………
 年間読書人
はじめまして。
コメント、ありがとうございます。

妹尾武治という人の本は読んだことがありません。

あと、『仏教における悟り』などは、すべて「幻想」にすぎないと思っておりますので、それが「反例」にも「反証」にもならないと考えます。
私は、徹底した、無神論者であり、宗教はすべて否定しています。宗教は「願望充足的な幻想」でしかなく、要は気休めであり、気休めとしてなら、役には立つだろうと。

ですから、「責任という幻想」を、真に「幻想だと実感する」ことは不可能だと思います。
それが、実感できたら、その人は、人間社会では生きられない、「狂人」の類いに分類されるからです。
もし、「幻想の現実(社会的責任)」に適応していながら、「責任という幻想」を実感できていると思うのなら、それこそが自己満足の幻想だと思います。

私の「宗教批判」関係のレビューも、読んでいただければ幸いです。下は、その一例です。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n542d5fa01d54   』

つまり、コメントをくださった「〇〇〇〇(仮名)」氏は、自身が「願望充足的な幻想」の外部に立てる、言い換えれば「人間の主観の外部に立てる(メタレベルに立てる)」と思っておられたようなのだが、私は「それこそが幻想なのですよ」と、ここで反論したのだ。

私自身「私たちは幻想の中にいる」と言っているけれども、同時に私は、だからと言って「私は幻想の外に立っている」などという「甘い認識」は持っていない。

それは、私がしばしば、次のような趣旨のことを書くことにも、すでに示されていよう。

「この宇宙には、本当は、意味など無い。だから善も悪も無く、それは人間という種が生き延びるために構築した、進化論的な虚構であって、そこに客観的な根拠など存在しない。人間の考える善悪観念など、他のすべての生き物にとっては、完全に与太話でしかないのだ。
だが、そうだとわかっていても、私たち人間は、そうした自己都合のフィクションの外部に立つことはできない。例えば、目の前で子供が殺されれば、それを酷いことだと感じるし、殺人者を憎みし、殺された子供が可哀想だと思ってしまう。そんな感情は、人間という生物が生き延びるための、仕掛けでしかないとわかっており、究極的には善も悪もなく、ただ、そうした事実があるだけ、目の前にゴロリと転がっているだけなのだとわかっていても、それでも私たちは、目の前で子供が殺されそうになれば、身を挺してでも、それを防ごうとしてしまうのだし、それが正常な人間なのだ。私たちが、正常な人間であるかぎりは、私たちは、私たち人間の外部に立つことは、不可能なようにできているのである」

つまり、「本当は、この世界には善も悪もない」と「考える」ことと、それを「実感できること」とは別物なのだ。
そう「考えること」だけなら比較的容易ですらあるのだが、容易にそう考えることができるにも関わらず、しかし、そうした「生存のための、制度としてのフィクション」を「実感する」ことは不可能なのだ。なぜなら、私たちは「そのように作られている(できている)から」だ。
だから、「私は、それがフィクションだと知っている。だから私は、そのフィクションの外に立ち得ている」などと考えるのは、「浅はかな思い違い」なのである。

「宗教的な悟り」などという「伝統的な権威」を持ち出してきたところで、それは単なる「権威主義」でしかなく、それが可能だという証拠になどならない。
それどころか「凡庸な権威主義」というものが、他でもなく「効率よく生き残るための、制度としてのフィクション」なのだから、そんなことにも気づかないような浅はかな人間が、一瞬たりとも「制度の外に立つ」ことなど、あり得ない話なのである。

そして、こうした、ごく常識的な認識は、本書『表層批評宣言』冒頭のマニフェスト的な文章「表層批評宣言に向けて」において、すでに語り尽くされている。
だから、私は、その後の議論がいかに複雑で、ついて行きにくい部分があっても、基本的なところではわかっていたから、本書が「わからない」とか「難解」だとは思わなかったのである。

『 表層批評宣言に向けて

 いま、ここに読まれようとしているのは、ある名付けがたい「不自由」をめぐる書物である。その名付けがたい「不自由」とは、読むこと、そして書くこと、さらには思考することを介して誰もがごく日常的に体験している具体的な「不自由」である。だが、人は、一般に、それを「不自由」とは意識せず、むしろ「自由」に近い経験のように信じこんでいる。従ってこの書物の主題は、「自由」と「不自由」とのとり違えにあるといいうるかもしれない。普遍化された錯覚の物語。その物語の説話論的な持続を担う言葉たちは、だから、むしろ積極的に「不自由」を模倣することになるだろう。ここに繰り拡げられようとしている文章は、それ故、ある種の読みにくさにおさまるほかはあるまい。この読みにくさは、選ばれた主題に忠実であろうとする言葉たちの運動から導きだされるものにほかならず、いささかも修辞学的な饒辞を気取るものではない。
 この書物の主題ともいうべき「不自由」が、一般には「不自由」と意識されがたいというなら、では、その「不自由」は、人目には触れがたいどこか奥深い地層の内部か、それとも瞳が達しえない不可視の圏域といったところに温存された何ものかとの遭遇として体験されるものなのか。いや、そうではない。いま、この瞬間、誰もがごく身近に感じとっていながら、その感じとられた生なましい対象を、奥深い影の部分だの、不可視の暗部だのに身をひそめたより確実なものと信じられる何ものかを参照することなしには、それを具体的な対象とは容認しがたいという、徹底して表層的な「不自由」が問題なのである。人が意識しないもの、あるいは意識するのを回避するもの、それは、のっぺら棒な表面だ。距離の意識も方向の感覚もが対象の認識に貢献しえない、中心や深さをいた環境としての表面。「知」は、この環境を、距離の意識と方向の感覚とに従って分節化しようとする。ところでその分節化を可能にする距離と方向とは、実は、すでに分節化されている、したがって決していま、ここにありはしない抽象的な環境の中にあらかじめ刻みつけられたものにすぎない。だから、あらゆる分節化の試みは、「不自由」への馴致を前提としている。そして、その「不自由」を「自由」と錯覚することで、人は「知」と呼ばれる抽象と折合いをつける。存在を分節化することで二義的な分節化をうけいれるかにふるまうこの抽象的な「知」に対して、ここでは、距離も、方向も、深さも、中心も欠いた表層の体験が顕揚される。だが、それは、できればそうあることが望ましいと夢想されるが故に顕揚されるのではなく、日常的に体験されていながらもその生なましい存在感があっさりと虚構化されてしまっているので、その虚構化の運動に抗うべく顕揚されねばならないのだ。
「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なものだ。
だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。
「装置」として、「物語」として、「風景」として不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとはしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
 表層の頭場を志向しつつもろもろの距離と深さとにとらわれて生きるしかない書物。その点からして、一つの遊戯的な姿勢が導きだされてくる。それは、「倒錯」の姿勢である。「制度」の機能を意図的に模倣しながら、その反復を介して「制度」自身にその限界を告白させること。あるいは「制度」がそうした言葉を洩らしそうになる瞬間を組織し、そのわずかな裂け目から、表層を露呈させること。「物語」の説話的持続の内部に、その分節化の磁力が及びえない陥没点をおのずと形成させること。そのためにも、いたずらに「反=制度」的な言辞を弄することなく、むしろ「制度」の「装置」や「風景」を積極的に模倣しなければならない。そうした戦略的倒錯によって実現される表層の回帰こそが、ここで「批評」と呼ばれている体験なのだ。その、表層と呼ばれるどこでもない場所で、言葉は、はじめて「物語」の分節「装置」から「自由」になるだろう。その「自由」は、「不自由」ととり違えられることのない荒唐無稽な「自由」であり、距離の意識と方向の感覚とを欠落させた何ものかの生なましい到来と呼ぶべきものだ。この生なましくもあつかましい何ものかの荒唐無稽な浮上ぶりを、人は誰もが体験的に知っているはずだ。それでいながら、その過剰なる何ものかは、たえずころあいの「記号」に還元されて、遭遇というあの単調な「物語」を再生産することで終ってしまう。そのことに、もっと苛立とうではないか。そして、その表層体験の記憶を、より生なましい現在として世界に向けておし拡げようではないか。「批評」とは、存在が過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を演じる徹底して表層的な体験にほかならない。この体験を「文学」から解放し、経験のあらゆる水準へと向けて拡散させようではないか。』(P5〜8)

「難しい」のは、「本書の書き方」なのではなく、本書が示す「制度への抵抗」そのものであり、その「具体的な方法」なのだ。
それが一筋縄ではいかないもの、「裏の裏の裏をかく」式なものだから、「わかりにくい」ものなのであって、本書の基本ラインは、私がここまで書いてきたことを理解できれば、おおよそ理解できるはずである。

ただし、ここで強調しておかなければならないのは、「書かれていることの意味を理解する」ことと「制度への抵抗の必要性を実感すること」とは、まったくの別物だということである。

こうした説明によって、「なるほど、そういうことだったのか」と納得し、安心した途端に、その人は「わかった」という「気休めの制度」に捕らわれており、「制度への抵抗の必要性」をいうことをすっかり忘れてしまっている。

だが、それでは「本書を理解したことにはならない」。それでは、結局「理解できなかった」ということにしかならないのである。

「罠を理解した」と思った瞬間に、私たちはもう一段上の罠に、まんまと嵌っている。

だから、本書に書かれていることを「字面」で理解することと、本書を理解することとは、まったく別なのである。
「字面の理解」とは、「制度の中での、理解という罠に嵌った」ということしか意味しない。本書から何も学んではいない、ということにしかならないのだ。

だから、このレビューを読んだくらいで、本書『表層批評宣言』を理解したなどと思ってもらっては困るのだ。

私がいつもいうように、すぐに「感動した」とか「美しい」とか言う人と同様、簡単に「わかった」つもりになってしまえる人というのは、間違いなく「わかったつもりの夢」に捕らわれているだけであり、しかしそんな人こそが「わかっていない」人であり、私の言い方で言えば、根本的に「読めない人」ということになるのである。



(2024年7月17日)

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【追記】(2024年8月20日)
本稿で書いた「蓮實重彦」支持を撤回して、逆に批判するレビューを書きました。ぜひ、ご一読ください。

(2024年8月20日)

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