「向き合う」というのは、立ち向かって戦ったり打ちのめすことではなく、自分とどのような関係なのか、どのような状況なのか、原因は何だったのだろうか、を一度冷静に見ること。 相手にはこんなことをされたけど、なぜそうなってしまったのが。自分、相手にもどのような原因があったのか
後ろめたさというのが一つキーワードとして浮かんできた 強硬手段、やりたくなくてもやらなければならないときというのは生きていれば起こることもある その後に自らがやったことに後ろめたさを感じるのか?それとも正当化するのか? 正しい・間違いは決めないが人の印象を左右すると感じた
この罪悪感があるままでは、何をやっても一部はその誤魔化し、引き替え、相殺のためになってしまう ただ、何も生み出さない、無価値な、存在するだけの自分にOKを出せるようになりたいしなる必要がある
何かをすることで、役に立つことで、生産的であることで自分の存在価値を証明し、ここにいていいと認めてもらおうとするような心理と衝動が身体の深くにあって、もはや基盤ともいえるほどで、でもなぜ自分がそこまでいじましく何かからの許可を求めるのか、自分1人でそれを認められないのかわからない
雨さえも 流せというか この予定 後ろめたさに 浮かぬ気持ちを 冷静に なればなるほど 後祭 直感信じ 過ちふかし 繋げれば 何かが変わる 信じれば 思ひ開くは 気持ち次第よ 幼さの のこる思いの 絵を見れば 無邪気さこそ 勝るものなし 年老いて 計算すれば 歯止めなし
あなたは、見つける前に見つかっている。 猫に、とは限らない。
人格を得て、保つためには「うしろめたさ」が必要なのか 良心とは自分の存在、言論に後ろめたさを感じえる能力のことであり、その能力の統一ある働き、詰り、後ろめたさに堪え、尚それと闘い、自分とのなれ合いを退ける努力を通じて人格を得る 人格についての福田の意見に悩む意義を感じる
少し下がった気温が 後ろめたさを感じさせるのか あんなにあつく感じていたのは つい少し前の事なのに 夕暮れ 日が沈む中で 今日の終わりを感じて行く 何をしても 何を思っても 時間だけは無条件に過ぎて行くの もう戻れない時を ゆるやかに感じられるのなら きっとそれは幸せなのだ
買ってきた里芋はしっかり乾燥させるんだよ、と電話口で母。へー知らなかった。大人になっても親から教わることはまだまだたくさん。こうやって代々伝えられてきた暮らしの知恵を、私はたぶん、誰にも伝えないままだろう。ちょっとだけ感じる後ろめたさ。ちょっとだけ、ごめん。
「みんなで」の意識があるんだろうなぁ。 あなたの中の「ちょっと悪いこと」はなんですか? 私は買い食い。 小さな頃に注意されていたことも影響するかもしれないけれど、「自分だけ」が美味しいという部分に後ろめたさがある。 「ひとりじめ」に罪悪感を感じているのかもしれない。