約束すべきただ一つのこと
「じゃあ、また今度。」と言って、笑顔で手を振ったことがある。
もう二度と会わなくても良いかな、などと内心思いながら。
全ての発言は、約束と嘘とに分類できる。
なぜなら、「私はりんごが好きである。」と言われれば、その聞き手は必然的に、それを信じるか疑うかの二択を迫られるからだ。
聞き手がそれを信じたとき、それは約束になる。そして、発言者が実際にりんごを美味しそうに食べていれば、約束は守られたことになる。
反対に、りんごには目もくれず、隣りにあるみかんに皮ごとかじりつこうものなら、嘘をついたことになる。
聞き手が最初から疑ってかかる場合もある。
このときは、発言者がたとえりんごを食べていても、「その表情があまり嬉しそうではない」などと難癖をつけ、無理やり嘘だと断定されることもある。
有名な哲学の問いに、「誰もいない森の中で木が倒れたら、その音は鳴るのだろうか?」というものがある。
この問いは、約束と嘘の概念を紐解くために利用できる。
「人がいないところで破った約束は本当に破られたことになるのだろうか?」
私は、破られたことにはならないと考えるべきだと、考えている。
りんご好きと言いながら、本当はみかん好きで、ふだんはそればかり食べている。しかし誰もそのことを知らない。であるならば、嘘をついたことにはならないのではないか。
逆に、本当にりんごが大好きだとする。しかしながら、なんらかのやむを得ない理由で、りんごを差し置いてみかんを頬張る姿ばかり他人に見せている。これでは、嘘をついているも同然ではないか。
もう会いたくないと思いながらも、「また会おう」と言う。そして、5年くらい経ち、ふとした瞬間に懐かしくなり、連絡を取って再会する。
これは、発言者が内心どう思っていようとも、聞き手からすれば約束は守られたことになるはずだ。
我々は往々にして、約束を破ったり、嘘をついてしまうことに対して、重く後ろめたい気持ちを抱きがちだ。
あのときもっとこうしていれば、約束を破って失望させずに済んだのに。もっと誠実であるべきなのに、嘘をつくなんて自分は卑劣な人間だ。などと考え、後悔の念に引きずられるようにして日々を生きてしまう。
しかし、そんなことを気にする必要は無い。なぜなら、その発言が約束のまま残るのか嘘になるのかは、所詮、結果論でしか無いからだ。
約束した時点では、それは約束のまま残るはずだった。しかしそれが、不可抗力によって達成できず、結果的に嘘になってしまう。
はたまた、嘘をつくつもりで言ったことが、何の因果かある時現実となり、約束を守ったとみなされる。
そんなことは、むしろ日常茶飯事と呼べるほど頻発しているのではないか。
外部要因によって簡単に左右される予測不可能な約束と嘘との移ろいに一喜一憂してはならない。
その都度責任感に押しつぶされそうになっていては、本当に大事なことに集中して生きることができなくなってしまうからだ。
では、本当に大事なこととは何か?
それは、笑顔で再会を約束したのは、相手の気持ちを傷つけないようにするためだっだことを、思い出すということである。
そこには、その発言の後に、この世がどんな理不尽を浴びせかけ、結果がどのように変わろうとも干渉されることのない真心があったのだということを、認識することである。
そして、次にまた、誰かに言葉を投げかけるとき、その真心を忘れないようにするということである。
そうすれば、その約束が結果的に果たせても、嘘になったとしても、それに翻弄されず、人生を歩んでいくことができる。
だからこそ私は、人がいないところで破った約束は破られたことにならないと考えるべきだと、考えているのだ。
そう考えていくのだと、自分自身と約束しているのだ。