ギバーとかテイカーとか、そういう人間観自体がよくないんじゃない?と思う話。
ギバーであれ、テイカーであるな、そういう考え方がある。色んなシーンで耳にする。そこにあるのはギバーへの崇拝、テイカーへの侮蔑。
「まずは徹底的にギブ」なんて言葉をよく聞いたりする。「まずは」って何?、何らかの目的を達成したらギブしなくなるの?
とりあえずこの投稿のなかではこの様な潮流に基づく考え方を「ギバー/テイカー人間観」と表現することにする。ギバー/テイカー人間観というモノの捉え方自体がどうなの?と思う部分を、これからダラダラと書いていく。
なお、はじめに注釈としてお伝えしておきたいがギブという行為そのものを否定している訳ではない。そこに尊さがあることは事実。自分がよくないと思うのはギバー/テイカー人間観であって、ギブという行為そのものではない。そこはお間違えなきよう読んでほしい。
この話の一番根本的なところ。ギブという行為を実践するためにはそもそもテイクしてくれる人がいないと成立しない。1人でギブすることはできない。テイカーが存在するからこそギバーが存在できる。
しかしギバー/テイカー人間観はテイカーを忌避している。テイクという行為そのものを自己から捨て去って、ギブという行為で満ち溢れた存在になれと説く。
つまりこの人間観では忌避するようなテイカーという役割を他者に押し付けている。テイカーを否定しながら他者にテイカーであることを強要する。自分はテイカーになりたくないから他者にテイカーであることを求めてしまっている。
こちらのギブを受け取るかは相手の自由だよという言説はある種の詭弁だ。受けるか受け取らないかという前段階で、ギブという行為自体がすでに相手に「後ろめたさ」をギブしてしまっている。
受け取ってしまったことに対する後ろめたさであれ、受け取らないことに対する後ろめたさであれ、少なくともその感情を駆動させることを前提にした行為の人間観だ。後ろめたさを感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも後ろめたさが駆動しうる種をばら撒いている。
後ろめたさそのものは人類社会にとって大切な感情だ。これが存在するからこその贈与的関係性も存在する。だが、この感情をギバー/テイカー人間観のツールとして駆動させるのはいただけない。
ギブとして成立するためには他者のテイクが必要。テイカーなくしてギバーなし。テイカーを否定しながらギバーであろうとすること自体が論理的に成立しない。ギバー/テイカー人間観におけるギバーは、他者との関係性におけるギバーというポジションをテイクしている。
と、ここまで書くと程度の問題ではないかと思われるかもしれない。いつもテイクばかりしている人をテイカーと表現しているんだと反論されるだろうが、それもまた変な解釈だ。そうなるとテイカーとそうでない人の間に境界線が存在するのだろうか。それはどの程度テイクしていたらテイカーなの?
もっと言うと、人間を「ギバー」「テイカー」という分類で語ることができるのだろうか。この人はギバーだ、この人はテイカーだ、そんな人間の属性分類は成立するのだろうか。そもそも人間はギバーであり、同時にテイカーであるのではないだろうか。
例えばある人との関係性において自分がギバーとして振る舞っているとしよう。でも別の人との関係性においては自分がテイカーとして振る舞っていることだってあるだろう。このとき、自分はギバーなのだろうかテイカーなのだろうか。
あるいは、同じ1人の他者と関係性においても自分をギバー的に解釈することもできればテイカー的に解釈することも出来てしまう。
例えば自分のノウハウを惜しげもなく披露する人がいるとしよう。そのノウハウを有難がる人がいるとしよう。このときノウハウの提供者はギバーで有難がる人はテイカーなのだろうか。ノウハウという対象に絞ればそうかもしれない。
しかしコミュニケーションや関係性という意味において、ノウハウ提供者は有難がる人の反応をテイクしているとも言える。有難がる人の反応を嬉しいとノウハウ提供者が感じるならば、相手が喜んでくれるのが嬉しいから、そんなことを思っているとすればそれはギブとテイクの関係が逆転している。
ノウハウという対象においてギバーはノウハウ提供者でありテイカーは有難がる人だが、反応という対象においてギバーは有難がる人でありテイカーはノウハウ提供者だ。
こう考えてみると、ギバーやテイカーという分類が、そもそも人の行為や意思をどの角度から切り取って解釈するかという「位置づけ」にすぎないのではないか。単なる位置づけに対して正義と悪を持ち出す思考アプローチには同意できない。
前述のノウハウ提供者とそれを有難がる人の話なんて、どこにでもあるありふれた関係性だ。何も否定されるものでなく、尊いものであると言える。しかしこの行為をギバー/テイカー人間観で捉えてしまうと、途端に歪む。
行為としてのギブとテイクは存在する。しかしそれを人間の属性に紐づけてギバーテイカーと称することには反対する。ギバー/テイカー人間観自体が、立派な人間を生むようなアプローチではなく「関係性の成立要件」に目を向けず片方のポジションを特定の解釈から位置付けて固定化させてしまうものだから。
他者をギバーだテイカーだと評することが一種の傲慢ではないだろうか。関係性やその解釈によって自分はギバーともテイカーとも言えてしまう。ならばギバーとかテイカーという人間観自体は捨て去って、ギブもテイクもどっちも持っているものと捉えた方が健全だと感じている。
ちなみにペイフォワードの概念と紐づけてギブが語られることもあるが、これまたまったく異なる概念なので紐づけること自体おかしい。
ペイフォワードの概念において自分は「既にテイクしてしまっていたことを自覚する」からこそギブという行為につながるのだ。これがペイフォワードを駆動させる後ろめたさだ。決してペイフォワードは自分から始まらない。既に受け取ってしまっていたもの、もう返すことはできないもの、そういうものに対する実感からペイフォワードは始まる。
強引にギバー/テイカー人間観で語るなら、ペイフォワードを実践する人は自分がテイカーであると認識しているのではないだろうか。すでにテイクしてしまっているから、次にギブせずにはいられない。
だいぶとっ散らかってしまった。相変わらずうまくまとめられず思考があちらこちらへ飛び交ってしまう。
これは自分がギバー/テイカー人間観を手放したときの思考変遷。だから誰かに強要はしない。ギバー/テイカー人間観をそれでも持ち続ける人がいるならもちろんそれは自由だ。でも、自分はこの人間観に共感はしない。