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中井亜佐子 『エドワード・サイード ある批評家の残響』 : vs蓮實重彦 ・何のための批評か?

書評:中井亜佐子エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房)

アマチュアながら40年も批評文を書いてきた私にとって、「批評とは何か?」「テクストを読んで(作品を見て)、それを語るとはどういう営為なのか?」という問題は、ごく基本的なことでありながらも、いまだスッキリとは解決しきれない難問であった。
だからこそ、いろんな意見を読んで「この意見もわかるが、あの意見もわかる。そして両者は論理的に並び立たない」というようなジレンマを抱え続けてきたのだ。

その最たるものが、「テクストのおける著者の意図」という問題であった。
例えば、ある小説を読んだときに「この作品には、著者のこういう経験が反映されており、著者が本作で描こうとしたこと、あるいは訴えようとしたのは、こういうことである」というような「古典的なテクスト読解」と、「テクストは、書かれた瞬間に著者の手から離れた独立的存在であり、そこに特権的な著者の意図などは存在しない。テクストは一連の文字の連なりでしかなく、そこから何を読み取るかは、読者の読解能力によりその読解の妥当性や深さに優劣はあるとしても、そこに何を読み込むかは、基本的にそれぞれの読者に任されている。仮にその読解が、著者の意図とは真逆なものであっても、それは「誤読」ではなく、著者の意図、つまり著者自身の読解と、権利としては同等のものであり、並び立つ権利を有するものである」というような考え方である。つまり、読まれるテクストには「読まれる以前には、いかなる意味も存在しない」というような考え方、言い換えれば、「古典的なテクスト読解」に対する、「作者の死」を経た「ポストモダンなテクスト読解」の「理論」だ。

で、私としては、このどちらも、それなりに納得はできた。だから、迷い続けてきたのだ。

実際のところ私は、テクストに秘められた「著者の意図」を含む「著者の人間性」や「その時代背景」といったものを読み取ろうとしてきた。
それが、ごく自然なことだと思えたし、私が興味を持つのも、そういう「謎解き」めいたものであった。つまり「テクスト」の中には、「著者の意図」を含めた、ある「真相=正解」というものがあって、私は、それを「掘り起こしたい=正しい読解」という欲望を持って、テクストと向き合ってきたのだ。

しかしまた、「テキストには正解など、あらかじめ存在するわけではない。テクストとは常に、読者との接触面において、意味を生成する媒介物でしかない」というような考え方にも説得させられてきた。
つまり、「テクストの中には、著者の意図という〈魂〉めいたものが込められているわけではない。そのように、読み取ることも可能なテクストが存在しているだけだ」という考え方も、非常に合理的なものだと感じられた。
これは私が、徹底した無神論者であり現実主義者だからで、「人間の中には〈魂〉などというものは存在しない」とか「この世には〈神の摂理=善悪〉などといったものは存在しない。存在するのは、複雑に組み合わされた〈物〉とその〈運動〉だけだ」といった私自身の「無神論」や「唯物論」と、そうしたポストモダンなテクスト論が、整合的なものだったからである。

そんなわけで、私は「テクストの中に、特権的な著者の意図など存在しない」という後者の意見に同意しながらも、しかし、その一方で実際には「テクストの中に、著者の意図を読み取ろうとしてきた」。
要は、この明らかな「矛盾」に、どのように決着をつけるのかが、私の長年の課題だったとも言えるのだ。

だが、「テクスト読解」における私のこうした「矛盾」は、それだけに終わる問題ではなかった。
例えば、私は「人間の中に、魂や心などというものは存在しない。それは化学的現象の見せる一種の幻想に過ぎない」というふうにも考えながら、しかし、実際には「この人は何を考えているのだろうか?」と考えながら生きている。そこでは、ほぼ無意識的に、相手の「心」の存在が、自明なものとして想定されている。

また「人間という生物に、特別な意味などない。だから、人類が滅亡しようが、この世界にとっては、何の意味も問題もない」と考えるし、これは個人であっても、原則的には同じことだ。
すなわち、親が死のうが子が死のうが友達が死のうが、それは主観的には悲しく重い経験ではあっても、しかし、人類はそれをずっと繰り返してきたのだから、そこに特別に思い意味などない、と考えるのである。
これは、極論するならば、私が時々書く「この宇宙には、善も悪もなく、意味などというものは存在しない」というのと同じことだと言えるだろう。

だが、そういう言いながら、私は、「大切な人」が死んだり不幸になったりすることを「仕方がない」で済ますことはできない。そうした人たちには、できれば幸せでいてほしいと思うし、その逆に、私が「悪」だと感じる存在を、黙って許すことはできない。
「善悪など存在しない」と言いながら、しかし「人間は、主観的には、そのように感じるようにできているのだから、その主観に生きざるを得ない」というような理屈によって、私は、理論的の想定され得る「究極的な真理」ではなく、私の「実感=主観」を優先して生きている。これが、私の現実であり、たぶん「すべての人の現実」なのではないだろうか。

そして、この問題は、ほとんどそのまま「テクスト読解」の問題にもつながってくる。
「テクストの中に、あらかじめ特権的な意味は存在しているのか否か」。一一これは比喩的に言えば「テクストの中に、著者の〈魂〉は宿っているのか否か」という問題だと言えるだろう。
私は、人間の中の〈魂〉の存在を否定するのと同様の意味で、テクストの中の〈作者の意図〉を否定するその一方で、実際には「他者の心」を想定して生きているように、テクストに対しても〈作者の意図〉を想定して読んでいる。

私は、こうした明らかな「矛盾」を、しかし「そう感じられるし、そのようにも解釈しうるのだから、私は私の実感を優先せざるを得ない。私は、理論的な正しさを、イデオロギー的に優先することなどできない」というような実感主義的な考え方のおいて、曖昧に並立させてきたのである。

だが、私のこうした「曖昧さの問題」を、あらためて私に突きつけたのが、蓮實重彦であった。

私は長らく、この人が嫌いだった。
この人が極めて頭の良い人だとは、わかってもいれば認めてもいるのだが、結局のところ、この人に言うことは、ある種の「理想論」ではあれ、「人間的な実感」には合わないものだと感じられていたからであろう。

しかしながら、そうだからといって、「嫌い」で済ませるわけにはいかない。
理解した上で「嫌い」だと否定するのは良いのだが、理解できないままに、ただ主観的に拒絶するのでは、それは結局のところ「敗北」だと感じられたので、最近興味を持った「映画」関連をきっかけに、そこから遡って、蓮實重彦初期の文芸評論を読み、そして、私の理論的な「仮想敵」的な存在でもあった「表層批評」を語った、初期の著作『表層批評宣言』を、先日とうとう読んだのである。

で、その結果私は「蓮實重彦を誤解していた」と理解した。
蓮實のいう「表層批評」とは、私が想定していたような「テクストには表層しかない」というようなものではないと、そう理解したのだ。
テクストには、著者の意図もテーマもあるだろう。だが、そういう「臆見」を持ってテクストに向かうことで、自分の読みたいように読むというのではなく、もっと虚心にテクストそのものにの向かい合うべきだ。つまり、見えるものとしての表層に忠実に向き合うべきだと、そのようなことを主張するのが、蓮實の「表層批評」だと理解し、蓮實重彦へのそれまでの「誤解」を謝罪し、訂正したのである。

少々長くなるが、『表層批評宣言』のレビューから、その部分を引用して紹介しておきたい。

『蓮實重彦の言う「表層批評」は、そもそも私の考えていたようなものではなかったというのが判明したから(※ 自身の蓮實重彦評価を全面的に訂正したの)だ。
私は、蓮實の「表層批評」とは、文字どおり、物事の「意味」や「深さ」を頭から否定して、「表層のみ」とするようなものだと想定していたのだが、そうしたものではないことがわかった。
それは本書の次のような言葉に、端的に示されている。
(※ 引用文省略)
つまり、ここで蓮實が言うのは、「作品」というのは「意味」や「作者の意図」に還元できるような貧困なものではないのに、そうした考え方が当たり前になってしまっており、「制度化」している。そうした安易な「制度」に人々は、安住してしまっている、ということだ。そしてこれは、いま流行りの「考察」に対する、私の苛立ちと同質なものだとも言えるだろう。

したがって、作品の「意味」を読み解いたり、「作者の意図」を読む取ること自体が、誤りなのではないということは、蓮實も認めているのである。
ただ、蓮實に言わせれば、そうした「読解=考察」などということは出来て当前のことでしかないのに、それで作品などの読解対象を「消費(消化)し尽くしてしまった」と勘違いさせ、そうした思い違いに縛りつけてしまう「制度」というものを、自明なものと考えてはいけない。「作品」とはもともと、「作者の意図」としての「意味」や「本質」といったものには還元できない、もっと豊かな「表層」なのだ、それは畏るべきものなのだと、大要そうした意味である。

つまり、「作品」とは、あるいは「現実」とは本来、捉えきれない「豊かさ」を持つものであり、それ故にこそ、その大きさ、捉えがたさを怖れて、その「現実」を矮小化しようとする「制度」が働き、私たちは、その「制度」が見せる「贋の表層」としての「贋の深さ」のようなものを信じ、それに安住してしまう。だが、それは、私たちの生を貧困化させるものなのだ、というようなことである。
したがって、蓮實重彦の言っていた「表層批評」とは、「本物の表層」に直面せよということであり、「制度」が見せるフィクションとしての「贋の表層」が備える「贋の深さ」に捉われることなく、対象を「ありのままに見る(ように努力しなければならない)」ということだったのである。
言うなれば、私たちは、私たちのものの見方を、強制的に歪めてしまう「制度」としての「意味」だの「深さ」だの「本質」だのといったフィクションに強いられて、対象を見誤ってしまい、そうした「制度」に従属させられてしまうのだが、そうではなく、それに「抵抗せよ」というのが、本書における蓮實重彦の主張なのだ。例えて言うならば、私たちが見ているのは、映画『マトリックス』(1999年)で描かれる「虚構された夢の中の現実世界」のようなものであり、もちろん「現実」そのものではない。
で、蓮實重彦は「目を覚ませ」と言い、さらに「目を覚ました先の世界が、またもや夢の世界である可能性を私たちは免れ得ないが、それでも、あれこれの手管を使って、そうした罠から逃走せよ」というのが、本書の趣旨だったのである。

くり返すが、蓮實重彦は、本来あたりまえに存在する「意味」や「深さ」や「本質」を否定したのではない。それらはすべて「表層」に見えているものなのだ。蓮實が否定したのは、そうした「表層」を隠蔽する、「虚構」された「制度」としての、「贋」の「意味」や「深さ」や「本質」なのだ。
「すべて(「意味」や「深さ」や「本質」といったことを考えるの)は、まずは、目を覚ましてからだ」と、そう訴えていたのである。
そんなわけで、いずれにしろ私は、こうした蓮實の基本的なスタンスを知らないまま、周辺情報や、ある種の「色眼鏡」で蓮實を見ていた。見誤っていたという事実が判明したので、これは改めざるを得ないと考えるようになったのである。
だから、ここで蓮實重彦に対し、明確に「ごめんなさい。あなたという人を見誤っていました」と謝罪しよう。』

そんなわけで『表層批評宣言』を読んだ私は、蓮實重彦への「誤解」を認め、今後は蓮實を支持する側に立ちたいと、このレビューで表明しておいたのだが、一一それでもまだ「納得できない部分」はあり、それを、上の「蓮實重彦」理解と、どのような整合性をもって接続できるのかという問題が残っていたのである。

その「納得できない部分」とは、具体的に言えば、次のような諸点だ。

(1)蓮實重彦は「三島由紀夫賞」を受賞しておきながら、その授賞式で「こんなものは迷惑だ」という趣旨の批判的な発言をした、その現行不一致の問題(賞は、事前に受けるか否かの打診があり、その際、蓮實は受けると回答していたはずである)。

(2)蓮實重彦は、自身が単独の選考委員を務めた「第1回Bunkamuraドゥマゴ文学賞」を、映画評論家の山田宏一に与えたが、この山田ほど「凡庸」な評論家もまたおらず、私は山田のことを「日本における、フランソワ・トリュフォーの御用評論家」だと批判したほどなのだが、蓮實はなぜ、そんな山田になど賞を与えたのか?
考えられる理由の一つは、山田が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画作家たちともコネのある、フランス映画に関する先輩映画評論家であり、かつこれまで賞に縁のない人物であったということ。つまり、山田に賞を与えることで、映画業界において何かと見返りが期待できると、そうした計算ずくで、山田に賞を与えたのではないか。
そもそも、自分が「迷惑だと」言い捨てるような「賞」の類いを、他の人に与えるというのは矛盾した行動であり、それがなぜ可能だったのかと言えば、それは内心では「賞など下らない」とか「賞などを本気でありがたがる奴は、無能な馬鹿だ」とそう考えていながらも、その「下らないカード」を、「業界政治の切り札」として馬鹿相手に切った、ということである。
言い換えれば、蓮實重彦は、文学賞をありがたがる作家どもを「下らない」と嘲りつつ、自分がそのカードを使えるときには、それをありがたがる山田宏一のような人物へ、エサとして与えた。心の中では嘲笑しつつ「貴方しかいませんよ」みたいな顔をして、賞を与えた、ということである。

(3)そして、(1)や(2)に止まらず、蓮實重彦の言動全般に現れている「他人に対する、舐めて小馬鹿にしたような態度」というのは、否定しがたい周知の事実であり、その点では『表層批評宣言』に見られた「真摯さ」と、明らかに「矛盾」する。
そこで私は、上の『表層批評宣言』のレビューにおいて、蓮實重彦のこうした「他人を舐め、小馬鹿にしたような態度」というのは、それまでの、堅牢な「制度」を揺るがすため、あえてなされた「憎まれ屋の身振り」だと考えた。「本当は悪い人ではないのだけれど、それまでの常識を覆すために、あえて挑発的な態度に出ているのだ」と、一応はそのように「好意的に理解した」のであるが、やはり「実感」としては、この説明だけでは満足できなかったのである。

で、このようなことを考えていたからこそ、私はやはり、全面的に「表層批評」に与することが出来なかった。

結局のところ、私が蓮實重彦の「表層批評」を容認できたのは、「蓮實のスタンスを、私が誤解していた=思っていた、ようなものではなく、本質的には私のスタンスと矛盾するものではなかった」という解釈においてだったのだ。だからこそ、私の身振りは、基本的には変わらなかったし、「表層批評」的なものにも路線変更する必要も感じなかったのである。

私の「変わらなかった批評的スタンス」が、先日書いた、次のようなレビューにも、端的に現れている。
それは、「著者の意図」や「作品の背景」を読もうとする、従来どおりの読解態度の擁護である。

『ある人物が「万引き」をしたとする。その場合、その人物がどんな属性を持つ人であろうと、「(同じ)犯罪を犯した=悪いことをした」という事実に変わりはないし、その点では、大統領が万引きしようと、子供が万引きしようと、「公平」に裁かれ、罰せられなければならない。
しかし、現実には、「金持ちや社会的に地位のある者が、遊び半分で万引きする」のと「食事にも事欠いた、飢えた子供が万引きする」のでは、その「情状」がまったく違うから、当然その判決も違ってくる。
そもそも、一人前の判断能力を有するとされる大人による犯行と、未熟な子供の犯行とを、同じように罰するのは、かえって公平性を欠くとも考えられている。これは、心神喪失者や心神耗弱者による犯行が、減刑されたり無罪になったりするということの、法的根拠にもなっている。
一一つまり、同じ行いであっても、その行為者の属性や背景などを考慮して、その行為を評価するというのは、言うなれば「当たり前」なことでもあり、そうであってこそ「正義」に適う判断だと、私たちは、普通そう考えているのである。

そこで話を「映画」に戻すと、例えば「同じ程度の同じような駄作」を、「作品A」は「作品B」の10倍の予算をかけて作っていたとしたら、人は「作品A」は「作品B」を、まったく同等に評価するのが正しい、と思えるだろうか。
資金集めを行う映画プロデューサーの意見は聞くまでもないことだが、一般の観客として「制作予算の多寡」になど基本的には関心がなく、「とにかく、結果として面白い作品なら、予算がいくらかかったかなんて、どうでもいい」と、そう考える私たちだって、やはり、同じような作品の片方が、もう一方の10倍の予算をかけて作られたと知れば、「10倍面白い作品を作れとまでは言わないけれど、少しはマシなものを作れよ」と、そう思うのではないだろうか。

それと同様、映画は、映画作品そのものとして評価すべきだというのは、一つの「正論」ではあっても、それが全てということにはならないだろう。

実際のところ、すべての作品は「時代(背景)の中から生まれてくる」のであるから、その作品が、そのような作品になったという結果に対する原因は、決して「作者の才能」だけではなく、少なからず「作者を取り巻く、その時の事情」だとか「時代背景」を反映したものなのだ。だからこそ、同じ作家による作品であっても、「必ずいつも傑作」だとか「必ず、何も見るべきところのない駄作」だということにはならないのだ。
「天才」でも、その天才が発揮できない「状況」があるし、「凡才」であっても、一生のうちには何度か、輝きを見せる(非常の力を発揮する)チャンスが巡ってくることもあるのである。

つまり、作品は作品として独立した存在なのだが、作品を作る作家は、変転する歴史的状況の中で作品を作っている、という事実もまた、決して否定できないものなのだ。
だから、作品を評価する上で、「背景を知る」ということも、そうした事実においては、非常に重要なことなのである。

そして、そのことを描いて実証してみせた傑作が本作『赤狩り』なのだ。

例えば、『ローマの休日』が歴史的な傑作であることなら、誰だって知っている。
しかし「なぜ、この作品が、特別な傑作になったのか?」という疑問に答えることは、作品を見ているだけでは、決してわからない。
「ここが素晴らしいから」とか「ここに問題がある」といった評価は、作品を見るだけでもできるが、しかし(その監督が、その出演者が)「なぜそんな素晴らしさを発揮できたのか(なぜ、他の作品では、同じことができなかったのか)?」とか「なぜ、ここで失敗したのか(なぜ、いつもはもっと上手くできていたのに、この時はそれができなかったのか)?」という問いに対する回答は、必ずしもその作品の中だけから取り出すことはできない。

なぜならば、作品自体は「時間性」を持たない「すでに閉じた・完結した存在」であり、作品それ自体が変化することはないからだ。つまり、仮にその評価が変わるとしても、それは「作品」が変化したのではなく、評価者の方(の見方)が変化したということでしかあり得ない。
だから、作品を「なぜ、いつもよりも」というかたちの「時間性」の中で問うなら、自ずと、作品の「背景」である「時間性としての歴史」というものをも考慮しないではいられないのである。
そして、本作『赤狩り』が私たちに教えてくれるのは、こうした「名作」や「失敗作」が、そのようなものとして結果するための「歴史的背景」であり、または、ある人が「立派な英雄」となり、別のある人が「卑劣な裏切り者」となる、その「背景的な状況」なのである。
「彼は、こういう人だから、こうなった」ではなく、「彼はこうした人生を歩んできて、こうした価値観を持っていたし、そしてこの時はこのような状況に置かれたから、いつもならしないことを、やってしまったのだ」とか「いつもならできないことまで、やってみせたのだ」というふうに、「生ける(時間性の)もの」として、描いてみせてくれた。』

この引用文の最初のところで「同じ万引きという行為でも、誰がどのような状況において、それを行なったかによって、その持つ意味は変わってくる」という説明をしているとおりで、要は「テクスト読解」においてもこれは同様で、「テクストそのものは同じでも、読者によって、その意味するところは変わってくる」というのが私の意見であり、しかしそれは、同時に「読者側の恣意的な読解」を支持するものでも擁護するものでもない、という意味なのだ。

「テクスト読解」においては、蓮實重彦が言うような「虚心にテキストに向き合う」という読み方もあれば、蓮實が批判したような「制度的な(偏見を前提とした)読み」というのもあって、原則的には「偏見としての制度」を拒絶する「表層批評」の方が「優れている」とは言えるだろうが、しかし、だからと言って、誰人も「読者という立場」からは自由ではなく、その「立場」は、間違いなく「個人の主観」に支えられている。
ということは、蓮實重彦の言う「表層批評」というのもまた、そのようにしておのずと多種多様に存在する立場の一つであって、決して「制度的な読解vs表層批評」という「二者択一」の「正しい一方」というわけではない、ということなのだ。

一種の理想論として「テクストに虚心に向き合う表層批評」が優れているとは言えるものの、「理論」として「表層批評」的な立場を選んだとしても、では、その結果としてのその「読み」が、誰がやっても「すべて同じものになるのか?」と言えば、もちろん、そうはならない。
同じ立場を選ぼうと、実際に「読む」のは多様な個々人なのだから、おのずとその「読解」は違ったものになって、その中での「優劣(読みとしての優劣)」は確実に生まれるのだ。

そして、この「事実」が意味するのは、原則論としては、「制度的な読み」よりも「表層批評的な読み(理想)」の方が優れているとしても、現実における「個別事例」としては、「制度的な読み」の方が「表層批評的な読み」より優れている場合も、事実として在るのであり、蓮實の「表層批評」が非凡なのは、蓮實重彦という人が個人として極めて優秀な人だから、そうなるだけ、なのだ。彼の「表象批評」というやり方だ「正しい」から「おのずとそうなる」かのように見えるけれども、じつは、そうではない。
「現実」と「理想」を比較すれば、「理想」の方が素晴らしいし、私たちは「理想」を目指すべきだろう。しかし、「理想」と「現実」とは、その存在の位相がまったく別なのだから、そもそも優劣のつけられるものではないのだ。だからこそ、旧来の読解法でありながら、蓮實重彦のそれよりも、ずっと優れた批評など、この世にはいくらでも実在する、のである。

つまり、私たちは、蓮實重彦の示した「制度的な読みとしての批評vs表層批評」という、わかりやすいけれども、現実には比較し得ないないものどうしの「二者択一」という、偽の図式主義の罠に嵌ってはならない
例えば、「神様と人間は、どちらが優れているか」という設問は、ナンセンスである。なぜなら、「神」は「完璧な存在であり、人間より優れたもの」として「仮構された存在(非存在)」なのだから、現実存在である人間と比較しての優劣判断など、もともと無意味だからである。それと、同じことなのだ。

蓮實重彦個人が能力的に優れていることと、「表層批評」という「理想の(理想でしかない)読解形式=理論」が「理想的で素晴らしい」ということとは、同じではないのだ。
つまり、「表層批評」とは、実現し得ない「理想」であって、実在はしない。言い換えれば、蓮實重彦の批評もまた、厳密には「表層批評」ではなく、その「理想」を目指して、永遠にそれには届かない、蓮實重彦流の批評でしかない、ということになるのである。

『表層批評宣言』では、蓮實には珍しく「自分の家族」のことなどにも触れながら、極めて「真摯そう」に語っているから、私のような「素直」な人間は、つい「騙されてしまった」のだけれども、あれもまた「蓮實重彦お得意の、方法的欺瞞」であると理解するなら、彼の言動の「一貫性のなさ」、つまり「真摯そうな物言い」と「人を舐めきっているとしか思えない、人を小馬鹿にしたような物言い」との「ギャップの大きさ」や「矛盾」は、あっさりと解消されてしまう。

東浩紀は、蓮實重彦のこの行動を、傍迷惑な蓮實の『ただの芸風』だと評した。要は、いつもの逆張り的な自家宣伝だということ)

つまり、蓮實重彦が、たまに見せる「真摯そうな態度」もまた、「人を舐めた演技(パフォーマンス)」だと理解すれば、ほぼすべての矛盾は解消し、その「謎」は消えてなくなってしまうのだ。

だから、ここでも私は「君子豹変」しようと思う。
蓮實重彦の著書『表層批評宣言』のレビューでは、私は「蓮實重彦を誤解していた。だからこれまでの否定的評価は撤回して、むしろ、蓮實重彦的な立場を支持しよう」と書いたけれども、今回は、その宣言を撤回しようと思う。
一一要は、根が素直な私は、蓮實重彦の「欺瞞」に態よく「騙された(説得された)」だけなのであって、やはり、ずっと感じていた「こいつは嫌いだ」という「勘」の方が正しいと、そう今は考えるようになったから、元の立場に復帰したのである。

もちろん、このように「君子豹変」を繰り返すからには、この先、また蓮實重彦に対する評価が変わる可能性はあるだろう。
だが、蓮實重彦について、詳しくは知らなかった(さほどその著作を読んでいなかった)時とは違い、今回の蓮實重彦についての否定的評価は、以前に比べれば、ある程度は蓮實重彦を知った上でも判断なのだから、前回のように、そう簡単にはひっくり返らないはずだ。
私はすでに、蓮實重彦の「嫌らしい顔」と「真摯そうな顔」の両方を見た上で、前者こそが「蓮實重彦の素顔」だと判断し、「二つの顔の矛盾」を乗り越えたのだから、今度、この解消された問題を、再び「謎」へと突き戻すのは、容易なことではないとわかっているからだ。もう「同じ手は食わない」「真摯そうな顔したって、もう騙されないよ」ということなのである。

 ○ ○ ○

そして、ここでやっと、このレビューの主人公である、エドワード・サイードの話になる。

私は、20年ほど前に、サイードの本を5、6冊読んでいる。
読んだきっかけは、2001年の「9・11 アメリカ同時多発テロ事件」と、それに続く「イラク戦争」において、サイードが、ノーム・チョムスキーらと共に、アメリカ批判の先頭に立った人だったからである。

エドワード・ワディ・サイード(إدوارد سعيد Edward Wadie Said, 1935年11月1日 - 2003年9月25日)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。』

(Wikipedia「エドワード・サイード」

つまり、サイードは、もともとはジョゼフ・コンラッドなどの英米文学の研究家であり、そうした研究の中で、欧米の文学が「東洋(オリエント)」に対して、いかに偏見に満ちたものかという事実を指摘した大著『オリエンタリズム』を刊行して、欧米の文学界に大きな衝撃を与えた人である。
なお、この著書でいう「東洋」とは、サイードが研究した、主に19世紀までの英米文学おける「東洋」なので、「日本」や「中国」といった東アジアのことではなく、当時のヨーロッパにおける「東洋」、つまり、北アフリカを含む「アラブ地域」であり、中近東のことを指している。

当然、こうした「斬新な視点」をサイードが持てたのは、彼の出自がアラブ・パレスチナにあったからであり、その上に欧米の学問が上書きされたためだ。彼にとっては、世界のスタンダードだと考えられていた欧米の学問が、いかに「偏見」に満ちたものであったのかということが、パレスチナに出自を持つ者として、実感としてよくわかったので、欧米における「東洋観」や「東洋趣味」というもののはらむ「偏見」を、鋭く指摘することができたのだ。
また、そうした観点を、批評理論として発展させたのが「ポスト・コロニアル理論」つまり「植民地時代後の文学理論」、それまでの「文学」に秘められていた「植民地主義的な偏見を暴く読みとしての文芸理論」だったのだと、大雑把に言えば、そういうことになる。
サイード自身は、個人として「欧米の偏見」を指摘したのだけれど、それを「誰でも使える」ようにしたものが「ポスト・コロニアル理論」だったのである。

ともあれ、私個人にとってのサイードとは、あくまでも、チョムスキーらと共に「アメリカ帝国主義を批判する知識人」という位置付けであり、その上でサイードは、私がそれまで縁もゆかりもなかった、アラブ的な叡智を、欧米的な叡智に接続してくれる貴重な存在だった。
チョムスキーがユダヤ系であるように、アメリカを批判し、イスラエルを批判する知識人の少なからぬ人たちは、民族的には、イスラエルに近いからこそ、イスラエルのパレスチナに対する横暴と、それを支援するアメリカを許すことができないという正義感に立ったものだったのだが、サイードの場合は、もともとパレスチナ人であったという点において、むしろ特異な存在だったのである。

本書は、昨年の2022年が、エドワード・サイードの「没後20年」ということで刊行予定だったものが、今年にずれ込んで刊行されたものである。
200ページほどの本で、決して「浩瀚」なものではなく、したがって、エドワード・サイードの「すべて」を論じることはできないので、本書は「サイードにとって、批評とは何だったのか?」という問題に絞られた内容となっている。
本書の帯には、次のようにある。

サイードにとって、批評とは何だったのか?
文学、音楽、パレスチナ問題など分野横断的に論じた批評家、エドワード・サイード。ポストコロニアル批評の先駆者として『オリエンタリズム』などの著作を残した。イスラエルによるガザへの軍事攻撃が激化。いまサイードの著作が読みなおされている。彼にとって、批評とはどのような営為だったのか? 没後20年をむかえた今、その思考の軌跡をたどりつつ、現代社会における批評の意義を問う。』

「サイードにとって、批評とは何だったのか?」一一少なくとも、サイードにとっての「批評」とは、「学問」の中で自己完結するようなものではなかった。

そもそも『オリエンタリズム』がそうであったように、その理論は「現実を討つ」ものであり、だからこそ、彼は『パレスチナ問題に関する率直な発言者』でもあったし、それ以前には『長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員』(Wiki)の、アクティビストだったのである。のちに、路線対立で、政治の現場からは離れたとしてもだ。

そして、そんな「批評は、テクストの表層的読解に終始する(し得る)ものではない」というサイードの「批評観」こそ、まさに蓮實重彦的な「表層批評」の「非現実性」を討つものとして、私を刺激したのである。

簡単に言えば、蓮實重彦の「反制度としての表層批評」という「理想」もまた、実際には「村の中での、ヘゲモニー争いのための道具の一形式」でしかないのではないかと、そう感じたのだ。
実際、蓮實重彦ほど、アクティビズムの似合わない批評家も、またとはいまい。当人も、それを自負しているはずである。だが、蓮實は、悪い意味での「陰のアクテイビスト」である蓋然性が十分にある。実際「東大総長」にもなったではないか。

そんなわけで、結局のところ蓮實重彦という人の「表層批評」というのは、「テクスト読解」というものから、可能なかぎり「外部」性を削ぎ落としたその「純粋性」において、つまり「現実の制約」までも削ぎ落としたその「非現実としての抽象である理想=きれいごと」において、我こそが最も「非制度的な批評形式」である、とするものだったと、そう言えるのではないだろうか。一一要は、村の中での「権威」を確保するための、現実にはあり得ない「純血主義」のアピールである。

だが、そんなものは所詮「村の権威主義=田舎の権威主義」でしかなく、「世界の現実を意図的に無視した、村中でのヘゲモニー掌握のためのユートピア的理論」でしかないだろう。

しかし、「批評」とは、現実にはもっと「多様無限な要因の絡まり合った複雑な現象」であり、また、そのような「現実」を扱うものであり、「テクスト」もまた、そのような「現実」のひとつなのではないのか。一一私は、そのように考えるようになったのである。

まずは「表層を虚心に見よう(語ろう)」という「表層批評」の「理想主義的な主張」も、結局のところは「(だから)我々のやり方を優先せよ」という、他人の「現実的な動き」を封じるための「政治的な牽制」でしかなく、それを「謙虚そうに語ったもの」でしかなかったのではないか。所詮はそれは「隠された政治性」だったのではないのか。
少なくとも、そのように考えれば、蓮實重彦の「現行不一致」や「冷笑的な態度」も、すべて合理的に説明がついてしまうのだ。

「批評」とは、「テクストを読む(読んで語る)」とは、結局のところ、「このやり方が正解だ」といったような、シンプルな「原理」になど還元できない「複雑な現実現象」だからこそ、「理論的な理想と実践としての現実」に、わかりやすい齟齬や矛盾も生じるのではないのか。
だからそれは、単純に、蓮實重彦個人の問題でもなければ、文芸批評や文学理論といった「アカデミズム村の問題」でもなく、「他人を理解する」「社会を理解する」「生きること、死ぬことの意味を考える」といったことと同じ、もともと、簡単には割り切れない「複雑な現象」なのではないだろうか。
「迫害されたユダヤ人の国家であるイスラエルが、どうしてパレスチナの人たちを迫害し、根絶やしにしようなどとするのか」といった謎と同様、シンプルに「現象の表面だけ」を見ていても理解のできない、そんな「あらゆる現実事象(謎)」と、結局は同じことなのではないか。つまり、「テクスト読解」というのは、あらゆることに対する「理解」と同様に、同様の「困難性」を有しているという点で、何も変わらないものなのではないだろうか。

本書の中で、紹介されていることに、サイードの「旅する理論」というものがある。
それは、ある「理論」が、別の文脈に置かれることによって、新たな意味を持って立ち上がり、理論として息を吹き返す(有効性を取り戻す)というような現象を、肯定的に語ったものである。

つまり、あらゆる「理論」や「作品(テクスト)」は、置かれた文脈によって「意味が変化する」ということであり、それらは、純粋に「独立した存在」でもなければ、「外在的要因」無くして存在し得るものでもない、ということだ。
そもそも、「批評理論」を含む、すべての「テクスト」は、「読者」という「外部要因」無くしては存在し得ないのだから、これは当然のことなのではないだろうか。

そして、蓮實重彦のいう「表層批評」とは実のところ、それを実践しようとする個々の「批評家(読者)」がいて初めて存在しうるものであり、その意味で、決して「テクストの表層のみ」として「内在的に有する、独立的な意味」などというものは、存在しないのだ。
あくまでも「意味」とは、「読者(観察者)」との関係の中で生み出される可変的なものであって、それは「表層批評」だって、旧来の批評だって、まったく同じことなのである。

だから、蓮實重彦の「表層批評」が、理論的には斬新であり優れたものであったとしても、それは「表層批評」という「方法論(理論)」が(現実的に)正しいというのではなく、それが「理想」的に抽象的なものであり、かつそうした「抽象性」が、蓮實重彦の個性を反映し、蓮實の個性を最大限に発揮せしめる、一つの「形式」でしかなかった、ということなのではなないだろうか。極論すれば、「表層批評」とは「蓮實重彦のやり方を理想化したもの」でしかなく、実際のところ「汎用性など無い」ということなのではないだろうか。
だからこそ、蓮實重彦のエピゴーネンは何人も生まれたけれど、蓮實を超えるような「表層批評」を駆使することができた者は登場せず、所詮「表層批評」は、蓮實重彦の「個人芸」の域を出なかった、ということなのではないだろうか。
そして、蓮實重彦流の批評が通用するのは、現実社会から切れた「映画(映像)の世界」だけ、ということになったのではないのか。

本書『エドワード・サイード ある批評家の残響』の著者・中井亜佐子は、後期サイードが多大な影響を受けた、レイモンド・ウィリアムズの考え方を、次のように紹介している。

『 意図をとりもどす

「意図」という問いは、狭義の文学研究においても、二〇世紀後半の比較的早い時期からすでに時代遅れのものになりつつあった。有名な論考「意図性の誤謬」が発表されたのは一九四六年のことだ。この論考の共著者ウイムザットとビアズリーは、文学作品はいったん書かれると作者の手を離れて公共財となるため、文学作品の起源をテクストの外部にいてテクストに先行する存在としての作者の意図に求めるような批評は、公共財を私的に囲いこむことになると主張した。その後、一九六〇年代の終わりにロラン・バルトが提示した「作者の死」というテーゼは、文学理論の共通の前提として現代にいたるまで受け入れられている。文学作品の作者の近代的なイメージ一一たぐいまれなる才能によって芸術を創造する孤高の存在一一は、フーコーの提案する「機能としての作者」や、ナラトロジー(物語理論)用語でいうところの「想定される作者」(読者が遡及的に構築する作者像)へと還元され、作者の意図はテクストの意味の決定要因とはみなされなくなった。
 一九七〇年代までには、脱中心化された主体の概念は文化や社会にかんするさまざまな研究領域を横断して支配的になり、新しいメディアとコミュニケーション技術を基盤とする社会モデルが誕生した。ウィリアムズが『テレビジョン』を書いていたのは、テクノロジーは社会変化や進歩を促す物質的条件を供給する自律的なカであると主張する「テクノロジー決定論」が、文化研究やコミュニケーション研究に強い影響力をもっていた時期である。こうした新しい社会モデルの前提のもとで、意図はますます重要性を失っていった。いうまでもなく、この傾向は現代までも続いている。ポストヒューマニズムやデジタル・カルチャーの時代に安易に「意図」を強調することは、ロゴス中心主義人間中心主義の誹りを受けかねない。
(※ 著書)『テレビジョン』でウィリアムズが「意図をとりもどす」ことの必要性を訴えたとき、彼はもちろん同時代の潮流を熟知したうえで、その流れに逆行しようとしていた。ー九七三年に発表された論考「マルクス主義文化理論における基盤上部構造」でも、ウィリアムズはマルクス主義理論における意図の重要性を強調している(この論考はのちにサイードが「旅する理論」のなかで引用し高く評価しており、サイードに直接影響を与えたテクストの一つである)。ウィリアムズはまず、基盤と上部構造の分断を強調する古典的なマルクス主義理論が全体性(ルカーチ)やヘゲモニーグラムシ)といったより包括的な概念の導入によって修正されてきた過程を概観する。ウィリアムズにとっては、社会的プロセスを全体性とみなすルカーチの理論は基盤と上部構造の二分法よりは受け入れやすいが、難点があるという。もしわたしたちがさまざまな社会実践を全体性としてのみとらえ、各々の実践が全体性の内部でのみ相互にかかわっているとみなすならば、そこには「決定」のプロセスが欠如している(決定は、マルクス主義理論の根幹を成すテーゼだ)。ウィリアムズにとって鍵となるのは、全体性の概念が意図の概念を含むかどうかという問いだという。全体性を意図の概念を欠いた雑多な実践の集積と定義することも可能だが、ウィリアムズによれば、どんな社会であっても固有の組織や構造をもっており、そうした組織や構造を動かす原理には特定の「社会的意図」が直接関与している。この論考の後半で「残滓的なもの」と「勃興的なもの」というあらたな概念が導入されるときにも、意図は重要な論点となる。ウィリアムズの主張はこうだ。どんなに支配的な文化であっても、「人間の諸実践、エネルギー、意図を完全に汲みつくすこと」は現実にはありえない。支配的な文化に抵抗し、異議申し立てをする文化実践、すなわち残滓的なものと勃興的なものの存在に気づくことは、文化を静止したオブジェクトではなく変容可能な社会的プロセスとして考察するためには欠かすことができない。
『テレビジョン』でウィリアムズがテクノロジー決定論を批判するのは、まさにそれが意図を排除する社会モデル(※ 要は「テクノロジーの発展に合わせて、なるようになるだけ」という、人間的な主体性を欠いた宿命論的な社会モデル)の上に成立しているからだ。テクノロジー決定論は「現実にある社会的、政治的、経済的な意図を、発明の偶発的自律性や抽象的な人間の本性の問題にすり替えてしまう」。ウィリアムズによれば、社会的プロセスがいかなる社会にも適用可能な「社会化」や「社会機能」といった抽象概念に還元されているような社会モデルにとっては、意図にかかわる問いを排除することはむしろ必然でさえある。しかし、そうした抽象化に抗って特定の社会の形態の生成プロセスを分析するためには、意図の概念が不可欠になってくるという。ウィリアムズが意図を想定したうえで社会の変容プロセスを記述すると、以下のようになる。

〈 原初的な意図は特定の社会集団のすでに知られている、あるいは望ましい諸実践に対応しており、発展の速度と規模はその集団の特定の意図や相対的な力の影響を強く受ける。しかし、それに続く段階の多くにおいては、異なる意図をもつこともあれば、少なくとも異なる優先度合をもっているような他の社会集団が、そのテクノロジーを採用したり発展させたりするだろう。さらには、多くの場合、まったく予想もされていなかった使用法や予想もしなかった効果も現われるだろうが、これらもまた、原初的な意図を真に修正するものである。〉
〈〉内は、引用文中の引用文。原文には〈〉は無く、段落落としとなっている。※ 印は、年間読書人による補足・説明)

 最後の一文にみられる洞察は、ウィリアムズの社会モデルの核心をついている。テクノロジーの「まったく予想もされていなかった使用法や予想もしなかった効果」の説明として、彼は火薬の発明を例に挙げる。火薬は支配階級の命令あるいは企業の投資によって開発されたかもしれないが、ひとたび発明されると、想定外の行為主体によって想定外の利用のされかたをする。たとえば、革命集団が支配階級を倒すため、企業の財貨を奪うために火薬を使用することもありうる。ウィリアムズが社会の変容プロセスを重視するときには、社会はけっして一直線に発展するものとはみなされていない。それは混線することもあれば、逸脱することもある。逆説的と思えるかもしれないが、ウィリアムズにとってはこの逸脱可能性こそが意図と行為主体が必要とされる理由なのだ。原初的な意図と行為主体を想定することによってのみ、そこから逸脱したりそれに対抗したりするような他の意図や行為主体、そして革命的変化もまた想定可能になる。
 前章で詳述したように、『はじまり』においてサイードは、「はじまり」を「意味の意図的な生産の第一歩」と定義している。「はじまり」はまたこうした意図をもつ行為主体としての作者に紐づけられている。この著作でのサイードは、構造主義的な(※ ポストモダン思想的な、すべては)「反復」(※ てある、との考え方)にとらわれているものの、同一性の反復を逸脱する契機として「はじまり」に注目している。はじまりとは「意図的に他のものである意味の生産」を開始することだ。同時にそれは「世俗的」な営為であり、そこで生産される作品は「別の作品」であって、先行する作品の系統からそのまま降りてきたものではない(B 13/一六)。』(P139〜145)

「現実」とは、どんな「理論」にも、完全に「囲い込まれてしまう」ようなものではない。だからこそ、あらゆる理論は、やがて、その欠点を突かれ、その点において「乗り越え」られてしまい、古びてしまうのである。

そしてこれは、ロラン・バルトミシェル・フーコー、蓮實重彦という、現在は主流を成している「批評理論」についても言えることなのではないか。
事実、「現実」は、彼らの「理論」からはみ出した部分を有しており、ただそれは、今のところ「学問村の主流」では無視されているだけなのだ。彼らは、ひとまず「理論的無矛盾性・形式的完全性」が大事なのであって、「現実」問題には、ほとんど興味がない。
だが、そういう「学外」を無視し軽んじた態度は、いずれ「現実」に討たれることになるだろう。

『 批評意識は理論に抗う

 ここで八〇年代のサイード用語の一つである「批評意識(批判的意識)」にかんして、ウィリアムズの思想との関係を概観しておきたい。
 サイードの論考「旅する理論」の主旨は、理論が学問制度にとりこまれることによって物象化(※ 利用されるだけの死物への変化)されることへの批判であり、ルカーチの革命思想の西欧における制度的受容や北米の学界でのフーコー受容、およびフーコーそのものにも批判の矛先が向けられている。リュシアン・ゴルドマンを経由してルカーチを受容したウィリアムズにかんしては、むしろルカーチの理論からの逸脱をつうじてあらたな(※ ルカーチの)可能性を見いだした思想家として評価されている。さらにサイードは、みずからウィリアムズに旅をさせる(※ 文脈を変えて別の問題意識に引きつけることで、その性質を意図的に変容させる)ことによって、ルカーチの物象化理論の(※ 可能性の)見なおしを行っている。ウィリアムズ自身の論考に依拠することによって、理論と(理論への抵抗としての)批評意識の関係の定式化を試みているのだ。つまり、「旅する理論」は「旅する理論再考」で論じられることになる「侵犯的理論」(※ 本来のかたちから、逸脱変容させる方法論)を暗黙のうちにすでに実践しているともいえる。
 ルカーチによれば、資本主義の生産システムのなかにいる労働者は人間性を奪われ、断片化され、労働力というモノと見なされている一一すなわち物象化されている。しかし、資本主義のシステムが危機に瀕するまさにそのとき、システムそのものへの批評的な意識が立ち上がる(英語の critical は crisis の形容詞形でもある一一また、crisis は「恐慌」という意味にもなりうる)。危機をつうじて、意識は客体の世界から理論の世界へと移動することになる。ルカーチにとっては、ここで生まれる批評的な意識とはもちろん、革命を起こし、人間の解放を導く真のプロレタリアートの階級意識のことだ。
 しかし、サイードのルカーチ読解には、ルカーチにたいしてかなり批判的なところもある。物象化を克服することの論理的帰結は革命的階級が自己消滅し、全体性へと向かうことだ。だが、それはある理論を別の、同じように硬直化しうる理論で雪き換えることではないのか。サイードによれば、ルカーチの矛盾は、資本主義のシステムにおいて物象化がすべてを支配的していると仮定する(危機が生じるのは資本主義の自己破綻による)が、まさにその資本主義のもとで、ルカーチ自身の批判的意識がそれにとってかわる思考形式を生み出したことを説明できない点(※ 自己矛盾)にある。ある一つの理論(システム)には、つねに(※ 元から)それに抵抗する批評意識が内在していなければならない(※ 何も無かったところに、途中から発生するようなものではない)。
 こうしたサイードの議論の道筋は、一九七〇年代のウィリアムズの思想に負うところが多い。サイードによれば、ウィリアムズはまさに理論の限界と陥穽、すなわちいかに画期的な理論であってもそれを無批判に反復することは罠になりうるという事実を見抜いていた思想家だった(WIC 239/三八九)。この論考に直接引用されたウィリアムズの以下の発言は、サイード自身の主張の要点でもある。

〈 いかに支配的な社会システムであっても、その定義上、すべての社会的経験を汲みつくすことはできないがゆえに、社会的経験にはそのシステムに代わる行為や意図、いまだ社会的制度として、あるいは計画としてすら分化されていない行為や意図のための余地が、つねに潜在的に含まれている。(WTC 240/九ー)〉

 ウィリアムズが「システム」と呼んでいるものを理論に置き換え、そのシステム=理論に代わる「行為や意図」をさらに批評意識と読み替えれば、これはそのままサイードの言葉として読むこともできるだろう。いかに支配的な理論であっても、すべての社会的経験を説明しつくすことはできない。社会的経験のなかには、既存の理論にオルタナティヴをつきつけてくるような批評意識がつねに潜在しているのだ。さらにサイードは、理論と批評意識を厳密に区別することを提案し、批評意識を以下のように再定義する。「いかなるシステムや理論であっても、それが生じた状況、あるいは移動させられてきた先の状況を完全に記述しつくすことはできないという事実を認識すること」。「理論への抵抗を認識すること、理論と相容れない具体的経験や解釈によって引き出される、理論への反抗を認識すること」(WIC 242/三九三)。
『世界、テクスト、批評家』の序文「世俗批評」であらためて注目したいのは、批評意識がフィリエーション・アフィリエーションの概念とどう関係するのか説明されている箇所である。本書第二章でも触れたとおり、この序文ではフィリエーションは家族をモデルとする伝統的な共同体、「養子縁組」を意味するアフィリエーションは近代社会における個人的な契約関係として定義されている。しかしサイードは、近代化のプロセスを単純にフィリエーションからアフィリエーションへの移行とみなしているのではない。彼が注目するのはむしろ、二〇世紀以降には両者のあいだに緊密な相互作用がみられるという点だ。
 サイードによれば、フィリエーションからアフィリエーション、すなわち「自然」から「文化」へと移行する過程において、後者はしばしば前者の権力構造を模倣し、再現する一一「そのように現前するアフィリエーションの秩序は、閉鎖的で固く結ばれた家族構造をひそかに複製し、世代間の階層関係を保全する」(WIC21-22/三四)。つまりアフィリエーションとは、社会がふたたび疑似共同体化することによって、文化が形成されるプロセスであるといってもよい。さきにも指摘したが、サイードはウィリアムズとは異なり、「文化」という語を排除の論理に支えられた概念として否定的にとらえる傾向が強い。「世俗批評」で文化の問題を論じる際に、サイードが念頭においているのはマシュー・アーノルドの定義する文化の概念だ。サイードは、アーノルドが文化と社会を同一視している点、および社会を安易に国家と等式で結んでいる点を厳しく批判する。ここでサイードの解釈するアーノルド的文化は、強制と同意を組み合わせて成立する支配的イデオロギー、すなわちヘゲモニーの概念に非常に近くなっている。
 フィリエーションとアフィリエーションの関係をどう認識するか批評意識が関与するのはまさにこの部分である。多くの場合、批評家はアフィリエーションによってかたちづくられた人文学の支配的文化を正当化し、権威づけする役割を担っている。サイードがしばしば学問共同体を前近代的な職人共同体を意味する「ギルド」と呼ぶのは、それがフィリエーションをみごとに模倣するアフィリエーションの形態をとっていることを強調するためだ。しかし、サイードは批評家にとっての第二の選択肢を以下のように示している。何よりもまず、フィリエーションとアフィリエーションの違いを認識すること。次に、アフィリエーションはたんにフィリエーションを模倣することもあるが、その代わりに集合性のまったく新しい形態をつくりだすこともできることを、批評をつうじて示すことだという(WIC 24/三八)。ここで示唆されるように、サイードはあくまで「養子縁組」という比喩言語をもちいつつも、アフィリエーションに既存の共同体モデルを超える可能性を見いだそうともしていた。』(P149〜155)

例えば「批評」を事とする人たちの共同体が、しばしば「ギルド」化することがある。
「現実」を見ることなく、「身内」での「正統権を競う」ような態度が「業界人としての成功」だと考えられるからだろう。だが、そんな「視野狭窄」的な「理論」偏重など、所詮は「村の祭り」に過ぎない。
サイードは、パレスティナの現実に立って、そうした「学者世界のオリエンタリズム」をして、まるで「ギルド」だと批判するのである。

『多くの場合、批評家はアフィリエーションによってかたちづくられた人文学の支配的文化を正当化し、権威づけする役割を担っている。サイードがしばしば学問共同体を前近代的な職人共同体を意味する「ギルド」と呼ぶのは、それがフィリエーションをみごとに模倣するアフィリエーションの形態をとっていることを強調するためだ。しかし、サイードは』

「学問共同体」を全否定しているのでは、もちろんない。そうではなく、

『サイードはあくまで「養子縁組」という比喩言語をもちいつつも、アフィリエーションに既存の共同体モデルを超える可能性を見いだそうともしていた。』

つまり、私がここで、蓮實重彦やその「表層批評」を批判したからといって、それを全否定しているわけでもなければ「すべて間違っている」と言いたいわけではないのと、同じことなのだ。

蓮實重彦が「制度」と呼んだような「古典的な読解理論」というのは、自分たちの「常識」を自明とした、言うなれば一種の「オリエンタリズム」に立った「テキスト読解の常識」だったと言えよう。
だが、蓮實重彦的な、あるいは、バルト的・フーコー的な「テクスト読解」というものが、それまでの「古典的な読解」を相対化して、その問題点を浮き彫りにしたという事実と、その功績は、否定し得ない。
したがって、「表層批評」的なものが、間違っているというわけなのではないけれど、しかし「それもまた、唯一絶対の正しい立場などではあり得ない」という自覚こそが必要だ、という、これはそういう話なのである。

「批評」というものの価値を判ずる場合に、まず「目新しさ」が重視され、次いで「理論的な完成度(無矛盾性)」が求められるというのは、「学問」としては当然のことなのではあろうが、しかし、そもそもの話、「学問」とは「現実」を対象とした読解・研究だったのであり、それを忘れてしまうと、蓮實重彦のように、「理論」を「業界内政治のための手管」に頽落させてしまうことにもなる。

『「世俗批評」におけるサイードの今日性は、八〇年代の時点ですでにアメリカの有力大学が(マシュー・アーノルド的な意味での)「国民文化」形成の担い手としての近代的大学ではなくなっていることを見抜いていた点にある。新自由主義およびグローバリゼーション体制下にあって国家権力が少数のエリートと結びついた結果、エリートのための文化を維持管理する組織へと大学は変貌を遂げつつあった。論考の冒頭の部分で、サイードは次のように述べている。

〈 きわめて狭く定義された純粋なテクスト性の哲学や批評的な非介入主義が、レーガン主義の支配と同時に出現しているのは偶然ではない。つまり具体的には、あらたな冷戦、軍国主義と防衛費の増加、経済、社会サービス、組織化された労働にかかわる諸問題における激しい右傾化と同時に起こっているのである。世界をテクストのアポリアや思考不能な逆説に完全に受け渡してしまって、現代批評はみずからの支持層、すなわち近代社会の市民から逃避してしまい、市民は「自由」市場の力、多国籍企業、消費欲の操作といったものに翻弄されるがままになっている。ありがたい専門用語が生まれ、そのおそるべき複雑さが社会の現実を覆い隠す。奇妙なことに思われるだろうが、その現実は、アメリカの権力が衰退しつつある時代の日常生活とはかけ離れた「卓越性のモード」の学問を奨励しもするのである。(WTC 4/六ー七)〉

 このようにサイードは、米国の学界の封建的な閉鎖性、極度の専門化、「世界」からの逃避が、とくにレーガン政権下の社会の変化一一あらたな局面を迎えていた冷戦下の軍事力強化、経済・社会の右傾化一一と連動していることを指摘している。自由市場や多国籍企業がコントロールする現実社会に翻弄される市民から背を向けて、学問は専門用語や難解さによって現実を見えにくくする。しかも逆説的なことに、まさにそうした現実こそが、日常とはかけ離れた「卓越性のモード」に学問が逃避することを奨励しているとサイードはいう。こうした状況にあって、文学カノンも批評理論ももはや市民の共有文化ではなく、少数のパワーエリートが独占する文化であり、卓越性の指標でしかない一一のちにビル・レディングズ『廃墟のなかの大学』(一九九七年)で詳細に論じることになる大学制度の決定的な凋落を、サイードは先取りして指摘している。サイードが批判する学問共同体の閉ざされたありかたは、いずれは学問を、共同体の内部においてのみ通用するゲームのようなものへと劣化させていくのだろう。それは、『フレンチ・セオリー』キュセが皮肉たっぷりに描くことになる、卓越性競争のゲームだ。「こうした戦いに勝つためのただひとつの基本原則は〔……〕独創性を獲得することである」が、独創性の基準はけっして真理の発見でもなければ、公共善でもない。「そのための基準となるのは、ライバルとなる研究者を払いのけ、有名な同僚の主張を時代遅れのものにする能力、今ある研究分野のあり方から逸脱し、その分野においてこれまでほとんど使われてこなかったがゆえに最も効果的な概念を最小限の努力で見つけ出し、それを突きつける能力だけである」。』(P118~121)

まるで、蓮實重彦の身振り、そのままではないだろうか。

一一だが、このようにして、日本でも「批評は力を失っていった」のである。



(2024年8月20日)

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