書評:蓮實重彦『映画の神話学』(ちくま学芸文庫)
蓮實重彦という人の「本質」をやっと理解できるようになったのは、英米文学研究者である中井亜佐子の著書『エドワード・サイード ある批評家の残響』で引用されていた、フランソワ・キュセの次のような言葉を読んだからだ。
中井の著書から当該言及部分を引用するが、「」で括られた部分が、キュセの著書からの引用である。
ここでキュセの言う、学問共同体内部での『卓越性競争のゲーム』における『戦いに勝つためのただひとつの基本原則は〔……〕独創性を獲得することである」が、独創性の基準はけっして真理の発見でもなければ、公共善でもない。「そのための基準となるのは、ライバルとなる研究者を払いのけ、有名な同僚の主張を時代遅れのものにする能力、今ある研究分野のあり方から逸脱し、その分野においてこれまでほとんど使われてこなかったがゆえに最も効果的な概念を最小限の努力で見つけ出し、それを突きつける能力だけである』というのは、まさに蓮實重彦にピッタリの言葉だった。
「ああ、そうか。蓮實重彦の批評に感じる独特の臭気は、これだったのか」と気づかされたのだ。
蓮實重彦の著書をいくつか読んでみると、わかってくるのだが、蓮實の場合はいつでも、自分の主張を語る前に「他の奴らは、おおよそ全部ダメだ」式の前振りをする。
そして、そうした中から「叩きやすい人物」を何人かピックアップして、それを徹底的に叩いた上で、おもむろに自身の見解を語り、自分が「他と、どれほど違っているか」と、自身の「卓越性」を強調するのだ。
端的に言って、蓮實の「作品読解」そのものは、きわだって「すごい」というほどのものではなく、「そう来たか」という感じの「なかなかユニーク(面白い)」なもの、に止まることが多い。
ちょっと面白い「推理小説(ミステリ)」を読むような感じだ。
だが、自身のその見解を語る前に「これまでの当たり前の批評は、すべて制度的思考にとらわれた、凡庸なものだ」と、レトリックのかぎりを尽くして否定しているから、それらとは「違う」というだけで、蓮實の「ユニークな読解」は、単に「ユニーク」なだけではなく、極めて「例外的」かつ「かくあるべき読解」、のように見えてしまう。
喩えて言えば「名探偵による最終的な推理の前に、ボンクラ警部の推理をいくつも並べておく」ようなものだ。
つまり、蓮實重彦の読解というのは、「中身のユニークさ」そのものとして有難いのではなく、その「希少価値(例外性)」を自らアピールすることによって、特別な「アウラ」が与えられるという、一種の方法的な演出を伴ったものなのだ。
だから、蓮實重彦の批評が「他の人(批評家)たちのものとは違って、唯一正しい批評法によるもの」と言わんばかりの、蓮實自身の「アピール」を外して、それそのものとして見るならば、前述のとおりで、蓮實のそれは「際立ってすごい読解(見解)」ということには、残念ながらならない。
「派手な包装紙を剥がしてみると」というようなことになってしまうのだ。
例えば、『監督 小津安二郎』における蓮實重彦の「読解」とは、よくある「娘の結婚」とか「美しき昭和の記憶」みたいな一般的なものではなく、「不可視の階段」とか「女たちの宙に浮いた二階部屋」とかいった、他の人は思いつかない「ユニークな着眼点」から、作品の本質としての「構造」を取り出す、という形式のものである。
これは、映画作品を論じる場合に、ごく当たり前の「主題論」的な分析もあれば、蓮實ような「構造主義」的な分析もある、というような、言うなれば「多様な見方がある」という立場から見れば、蓮實の「作品分析」は、いろいろな「分析方法」がある中での「ユニークなひとつ」、ということで終わってしまう。
ところが、これも前述のとおりで、蓮實重彦の場合は、「主題論」的な分析なんてものは「制度的思考にとらわれた紋切り型(の一種)」でしかなく、「映像作品としての映画」というものの本質を捉えていないと、そう本質的に否定してしまう。
つまり、「いろんな見方がある」とは、認めておらず、「たいがいのものは、制度にとらわれた見方でしかない」からダメだ、という立場なのだ。
したがって、蓮實の、俗に言う「表層批評」というのは、単なる「一つの立場」ではなく「唯一の正しい立場(からの批評実践)」であるという意味合いが、暗に与えられている。そうと断言まではしないものの、実質的にはそう語っており、そんな印象を読者にハッキリと植えつけるものになっているのだ。
だからこそ、蓮實重彦のやり方だけが、「特別なもの」のように見えて(見せられて)しまう、のである。
で、これは何なのかと言えば、くり返しになるが、所詮はキュセの言った、
ということになる。
まさにこれが、蓮實重彦のやり口なのだ。
○ ○ ○
さて、蓮實重彦の「映画論」書としては、1冊目となる本書『映画の神話学』(1979年初刊)も、まさにそうした『ライバルとなる研究者を払いのけ、有名な同僚の主張を時代遅れのものにする能力、今ある研究分野のあり方から逸脱し、その分野においてこれまでほとんど使われてこなかったがゆえに最も効果的な概念を最小限の努力で見つけ出し、それを突きつける能力』を、存分に見せつけた著作となっている。
「栴檀は双葉より芳し」ということなのであろう。
蓮實重彦の初期著書の特徴と言っても良いと思うのだが、本書なども、特に冒頭部分は「殊更に晦渋な文体」で書かれている。
まるで「この本は、頭の悪い奴ではついていけないぞ」と「カマしている」ような書き方なのだ。
だが、心配はご無用。こうした「晦渋な文章」が、1冊丸ごと続くわけではないので、そこを我慢して乗り切れば、あとは比較的「常識的な文章」になっているから、冒頭部分は理解できなくても、後の大半は理解できるようになっているのである。
では、蓮實重彦は、どうしてこんな「面倒くさい」書き方をするのかというと、それは、平たく言えば「鬼面人を脅す」というやつだろう。「私はこんなにすごいんだぞ」というのを、最初に「一発カマしておく」という手法(カウンターパンチ)である。
なぜ、そんなハッタリめいたことをするのかと言えば、それは、これをやっておけば、その後で、どんな「決めつけ」めいたことを書いたところで、冒頭の「難解な文章」の意味を十分に読み取れなかった多くの読者は「きっと蓮實さんは、何か深い根拠に基づいて、こんなふうな断言をしているんだろう」と、そう勝手に「深読み」してくれるからである。
しかし、「深そうな文章」というのは、必ずしも「正しいこと」を正確に語っているものだとは限らない。
例えば、私が趣味で研究している「キリスト教」もそうで、「神学書」なんてものには、一読きわめて「難解」あるいは「意味不明」なものが大半だ。
だが、「神学」というものの意味(本質)を知らない読者だと、それを「何やら深いことが書かれているようだぞ(私には理解できないけど)」と、そういう「誤った深読み」をしてしまいがちである。
だが、それは多くの場合「深いから理解が困難」なのではなく、単に「特殊な前提に立った議論=非常識な前提に立った議論」だから、「常識」では理解できないだけ、なのだ。
この「キリスト教神学」というのは、実は「神の存否」から探究をはじめる「学問(客観的学問)」などではなく、「神は実在する」という「主観(信仰)」を前提として、我が宗派の「ありがたみ」を理屈づけるための、御用学問なのだ(神学・教学というのは、どんな宗教でも、そういうもの)。
だからその意味で客観的に見れば、「クトゥルフの神々は存在する」という前提で語られた、H・P・ラヴクラフトらによる「クトゥルフ神話」と、完全に同等の「フィクション」にすぎない。
しかしながら、それなのにそれを「この世の真理」だと大真面目に語り、また、それを本気で信じこむ信者が大勢いるものだから、そんな「信仰を持たない人にはわからなくて当然の、非合理な決めつけ」が、努力すれば知解可能なものであるかのように誤解させられ、「難しく、さっぱりわからない」という、微妙にズレた理解になってしまう。
「論理的に理解しうるものが、理解できない」というわけではなく、「非論理的なものだから、論理的に理解できるわけがないだけ」のものが、曖昧に混同されてしまうのだ。
「イエス・キリストは、完全なる神であると同時に、完全な人間でもある」などと言われても、そんなもの、「排中律」なんて難しい言葉を持ち出すまでもなく、「非論理的なので理解不能」のひと言で片づくものなのだ(世界のすべてを一瞬に洞察できる人間なんて、人間ではない、ということ)。
要は、それは、合理的には理解不能な、単なる「屁理屈(欺瞞的レトリック)」でしかなく、決して「深いから理解できない」というようなものではないのである。
一一で、蓮實重彦の「特別性=反制度性」というのも、この類いのものなのだ。
本書『映画の神話学』では、文化人類学者の山口昌男が槍玉に挙げられ、「頽廃者」の象徴的な人物として、文字どおりボロクソに貶されているのだが、これもキュセの言う『ライバルとなる研究者を払いのけ、有名な同僚の主張を時代遅れのものにする能力』の、わかりやすい発露に他ならない。
山口昌男の「中心と終焉」理論だとか「道化=トリックスター」理論だとかいうのは、当初は、「目から鱗」の抜群に面白い理論だったし、私も山口がとても好きだったのだが、しかしそれで人気が出て「知識人としての地位」を得てしまうと、もう誰も悪いことは言わなくなったせいなのか、山口は、何を扱っても、みんな「そのパターン」で論じてしまう(切ってしまう)という、好ましくない状態に陥ってしまった。まさに理論が「紋切り型」化してしまい、ファンの私でも「またこれか」という感じになってしまったのだ。
要は、多くの人たちから、本音では飽きられ始めていたのだが、しかし山口昌男という人は、自身「反権威のトリックスター」たらんとしたような、決して威張らない、いかにも「好人物のおじさん」だったから、かえって周囲の人も「もう少し、新しいことを言った方が良い。みんな飽きてますよ」などという注文もつけにくかったのでもあろう。
一一だが、そんな「空気」に目をつけたのが、蓮實重彦だったのだ。
本書で蓮實から批判されているように、たしかに山口昌男の映画『カッコーの巣の上で』論なんかは、まさに「またこれか」であり、それに比べれば、蓮實重彦の「円形と矩形」という着眼点からの分析というのは、「意外性」があって面白い。
小津安二郎を「不可視の階段」から論じたのと同様の「ユニークな着眼点」であり、悪く言えば「奇を衒った議論」でしかなかったのだが、山口昌男のそれがあまりにも凡庸退屈なものだったため、その比較から、蓮實重彦のそれは、実際以上に素晴らしいものに見えてしまうように、本書は出来ているのだ。
実際、山口を批判する前段で語られる、蓮實の『サイコ』(A・ヒッチコック)論における「円形・穴・螺旋」のこれでもかという強調は、客観的に見て、かなり「こじ付け」がましいものだ。
『もはや改めて指摘するまでもあるまい。』とか『殊のほか刺激的なのだ。』といった、この「断定」口調が、クセモノである。
読者が皆そう思っているとは限らないのに、こう確信ありげに「断定」することで、「そうでしょうか?」といった異論を挟みにくくさせるという、詐欺によくある手口と同じなのだ。
「大丈夫ですよ。私に任せてください!」「そうに決まってますよ。他に何があると言うんです」一一こんな言葉にまんまと乗せられたあげく、裏切られる人が山ほどいるのである。
『円環の主題があからさまに顕在化する。』とか『ここでヒチコック的曲線の至上形態に達していることは誰の目にも明らか』とか言うけれども、一一「そうかねえ? そこまで断定できることですかねえ?」と、そう、一歩退いて疑ってみることこそ、批評的精神であろう。
これは、シャワールームで女性がナイフで殺害されるという『サイコ』の有名なシーンについての「解釈」なのだが、この映画に限らず、シャワールームでの裸の女性が写されているのなら、「円形」や「円環」的なものがたくさん映るのは、当然のことなのではないだろうか。
だが見てのとおり、そんなありふれたことでも、蓮實重彦のレトリックにかかれば、何やら、すごい「大発見」のように思わされてしまうのだから、それはまあ大したものである。
だが一方、こうした「ヒッチコック」論に無理があるのは、蓮實自身も気づいているから、そちらへの手当ても、抜かりはない。
つまり、ヒッチコックのすべての作品で「円形・円環の主題」が明らかなわけではなく、『裏窓』のように「矩形」が主体である場合だってあるというのは認めるのだが、その中に「カメラのレンズ」の「円形」を見出し、そこを強調することで「この作品も」そうだと、強弁するのだ。
しかし、「円形(円環)」と「矩形」のどちらかが見つかる(頻出する)というのなら、都会を舞台にした作品なら、ヒッチコックの作品ではなくとも、いくらだって見つかるというのは自明な事実であろう。
また、こういう蓮實重彦的な「着眼点の面白さ」とは、じつのところ、その「例外」を意図的に隠蔽したところでの、大胆不敵な「断定的強調」にすぎない。
例えば前述の「小津安二郎論」における「不可視の階段」だって、ちゃんと真正面から階段の写っている作品もいくつかあるし、その二階も女たちの部屋になっているから、「女たちの宙に浮いた二階部屋」ということにはならない。階段が写ってないからこそ、ニ階は、階下とは切断されて、まるで「宙に浮いている」とようだという、蓮實流の「面白い」話にもなるのだが、「例外」の合理的な説明が為されてはいない。
これは。都合の良い事例しか語らないという、いかにも胡散臭いレトリックなのである。
つまり、「主題論」的な批評を「制度的で凡庸」だとあらかじめ否定し、その上で「見逃されている」のは、「事物」だの「形態」だの「運動」だのだと強調した後で、「円形と矩形」などという、普通はあまり注目されないところを指摘するから、殊更に「凄そうに聞こえる」だけなのだ。
要は「他を貶すことで、相対的に自分を立派に見せる」という、一種の「(裏返された)自画自賛」なのである。
そして、そんなやり方で、「映画はこのように見なければならない」と暗に主張し、それが出来ない人は「制度的な思考」にとらわれ、それに安住している『頽廃者』だと否定してみせる。もちろん、蓮實重彦自身は「頽廃」に抗っている少数例外者、というわけだ(これも自画自賛)。
そんなわけで、蓮實が評価したくない『カッコーの巣の上で』に、感動したり、面白かったと評価した人は「頽廃者」であり、その代表が、あのダメダメな山口昌男だと、そうくるわけだ。「あなたも、山口昌男と同様の、知的頽廃者じゃないですか?」と、暗に「脅迫」しているのである。
「そう思われたくなければ、私の批評方法を支持しなさい」と。
一一この「持ち上げてから落とす」というのは、悪口の基本である。
『これはごくあたり前なことだが、われわれは、映画について何でも語ることができる。その政治的な側面、社会学的な側面、神話学的な側面、美学的な側面など、これまでいやというほど語られてきたし、その記号学的な側面とやらも』大いに結構だろう。
けれども、それは『いとも無邪気で善意にみちた身振りによって無償の饒舌を煽りたて、ただただあっけらかんとしたやり方で醜悪さから目をそらそうとする。その(※ 頽廃者による)無意識の隠蔽作業が、あたりに頽廃の渦を捲きたててゆく』作業でしかないと、そう言っているのだ。
一一つまり、私のやり方以外は、みんな「制度にとらわれた頽廃者のものでしかない」と言っているのである。
『カッコー』に感動する人は「頽廃者」であり、当然、蓮實重彦自身は「そうではない」ということである。
他にも、こんな「貶し方」もある。
ここでは『抽象的』あるいは『形而上学的=神学的な思考』が、否定的なものとして語られているが、どういう意味かと言うと、一般的な「制度的思考」というのは、「現実を見ていない」と、そう言っているのだ。言い換えれば、蓮實自身の対象の見方は「具体的」であり「現実的」であり「非制度的」だという、「自己申告」である。
要は、自分は、映画でも文学でも、その「表層」をしっかりも直視して評価しており、「意味」という思考の制度にとらわれたりはしていないと、そう言いたいのだ。
一一だが、この自己申告を、どれだけの人が素直に呑み込めるだろうか?
つまり、普通に読んで「不必要に抽象的」であったり「思わせぶりに難解」であったりするのは、むしろ蓮實重彦の文章の方だと感じられるのではないだろうか。
したがって、真に「いかがわしい」のは、映画ではなくて、映画を「いかがわしい」ものにしておきたい、蓮實重彦ご当人の方なのである。
例えば上の引用部分では、山口昌男に絡めて、山口が影響を受けた学者たちも、ひとまとめに「なで斬り」である。
だが、この雑な批判は、いかにも自己喧伝的なパフォーマンスにすぎなかろう。
いったい、蓮實重彦は、自分がどれほど「世界的に偉大な批評家」だと思っているのだろうか?
要は、ムカジョフスキーが『「作品」を、その自己同一性から解放しているかに見える』けれども、結局はその『構造的集約点という概念』によって、『新たな排除と選別』をやらかしてしまっている。だから、そういう理論化は、新たな、よりタチの悪い「制度」の産出でしかない、と言っているのだ。
で、ここまで周囲を、大雑把になで斬りにしておきながら『思考の卑小な頽廃ぶりの実態を暴露することに貢したとはいえ、費された知的=感性的な緊張のわりにはあまりに酬われることの少なかった試みの徒労感、不条理な痛みの感覚ばかり』だなどと、わざとらしく嘆いて、己の「自己犠牲」ぶりを大袈裟にアピールし、その後、それでも、やるべきことをやったのだと、次のとおり、またもや自賛するのである。
これが、例の『ライバルとなる研究者を払いのけ、有名な同僚の主張を時代遅れのものにする能力、今ある研究分野のあり方から逸脱し、その分野においてこれまでほとんど使われてこなかったがゆえに最も効果的な概念を最小限の努力で見つけ出し、それを突きつける能力』なのだ。
「私だけが体を張って抵抗しています」という自家宣伝である。
ここまで具体的な説明すれば、蓮實重彦の「やり口」が、はっきりと見えてきたはずだ。
しかしながら、真の問題は、蓮實重彦の、いわゆる「表層批評」もまた、蓮實自身が批判した、「より巧妙な制度」の一種でしかない、という事実なのだ。
文学作品であれ映画であれ、「意味論」的な批評などではなく、作品の表面に(現に)見えている部分に真摯に向き合うべきだと、蓮實が主張するのは、「意味論」的な読み方というのは、古い文学的な「思考の制度」のよるものだから「そんなもんではダメだ」ということなのだが、問題は、だからと言って、そういう読みの立場(制度)が、否定廃棄してしまえるものなのか、という問題である。
この点については、別のレビューに書いているので、ここではそれを引用して済ませよう。
つまり、蓮實重彦は、人のやり方を「制度」にとらわれたものであり、そんなのではダメだと否定し、「制度」化を避けるものとして、「仮死の祭典」としての映画・批評こそが必要なのだと、そんなわかったようなわからないようなことを言っているが、これこそが、典型的に「神学」的な物言いなのである。
いかにも「何やら凄そうなことを言ってる」みたいな、レトリックなのだが、だからこそ蓮實は、この肝心かなめの部分は、決して「平易に語る」ことはできない。
なぜなら、簡単に説明してしまったら、それはごく当たり前のつまらない話でしかなく、「そういう考え方もありますよね」と、あっさり身をかわされてしまうのは、目に見えているからなのだ。
「神学者」に対し「理屈は良いから、神がいると言うのなら、ここへ呼んでくださいよ。お会いさせてください」と要求しても、決して会わせてはくれないように、蓮實重彦に「映画だが映画批評だかが、仮死の祭典だとかおっしゃいますけど、それは単なる、洒落た比喩ですよね。そうじゃないのなら、もっと具体的に説明してください」と要求しても、そもそも大して具体性なんて無い「枯れ尾花」なんだから、これですといって、見せるわけにはいかないのである。
で、どうして私が、こんな身も蓋もない断言をできるのかと言えば、それは、「制度」的な思考がけしからんだの、「排除と選別」がけしからんだのと、いかにもご立派なことを言っていた人の成れの果てが、かの「三島由紀夫賞授賞式での、迷惑スピーチ」に示された、隠しようもない「蓮實重彦自身の並外れた頽廃ぶり」だったのであり、そんな「動かぬ証拠」があったからである。
この「迷惑スピーチ」の問題についても、すでに前のレビューに書いているので、それを引用させてもらう。
つまり、蓮實重彦というのは、こういう「得意のレトリックで、巧みにライバル学者をこき下ろし、その評判に傷をつけることで、成り上がった人」だった、ということなのだ。
この人の「批評」文とは、そのために「武器」であり、蓮實重彦が褒める映画作家とは、自分のやり方が生きる(映える)タイプの作家で、誰でも語れるような「テーマ性」や「感動」が売りの作家や作品は、「そんなものは下らない(制度に捉われて頽廃した目を持つ者しか喜ばない)」と、レトリックのかぎりを尽くして貶され腐されることになる。
もちろん、こういう悪どい人間であっても、決して馬鹿ではないし、伊達に映画をたくさん見ているわけではないから、その著書の中には、なるほどと感心させられる知見が少なからず存在する。
しかしそれは、プロの映画評論家ならば、言わば「当たり前」のことで、私は何も、蓮實重彦という人を全否定したいわけではないのだ。
私がしたいのは、蓮實重彦の才能を認めつつ、その生き方の「汚さ」であり、その証拠が、かの「三島由紀夫の授賞式での迷惑スピーチ」だと、蓮實重彦の理屈や主張の「結果」が、あの「スピーチ」にあられもなく露わになっていたのだと、そう指摘しているだけなのである。
だから、蓮實重彦の本も「ま、そういう意見もありますよね」と思って、楽しく読めばいい。
蓮實重彦式でないと「頽廃した人間(鑑賞者)」認定されてしまうなどと、殊更に恐れる必要など、かけらもないということなのだ。
要は「たかが、日本の映画評論家のひとりではないか」ということである。
(2024年8月28日)
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