◆「もし文法を越えた普遍性をひそかにはらむとすれば、それは、レトリックがじつは文法より上位の文法、けっきょく言語の記号学をわれ知らずにのぞんでいたということではないか。きっと、そうだ」(佐藤信夫「隠喩と諷喩と書物」『レトリックの消息』153頁,白水社,1987)。
◆(自分だけの問いを抱いているか)心が自由に感じ、(独自の近位項体系を編成しているか)自由に考え、(自身の言葉による分節体系と技術を鍛えているか)自由に話し書けているか?押し寄せる諸項の接続秩序(これをそのまま受け入れることが従属)を個で切り結び返す。記号論は自由の基礎となる。
◆記号論はなぜ眠ったか(眠ったのかそれとも他と溶け込んで混ざっているのか)。よくあるように範囲を広げすぎる希釈化と分化精緻化による些末化だろうか(魔改造ならぬ魔分類でくらくら)。まずは言葉と徴候、それぞれの典型例から何度も具体例で吟味省察を繰り返して皮膚感覚にしないと。
◆複層的な言葉の構造、世界との関係性 Sa:シニフィアン 記号における表現部分 Sé:シニフィエ 記号における意味部分 ・微細な差異を認識できず、分節する語彙がない。 ・抽象的には表現できるが、具体性のある分節を見いだせていない。 ・(今はまだ)語り得ない領域
言葉とは、その原理からいって他者の存在を前提としているのだから、使用者に対して他者の存在を想定しようとさせるという倫理的原理があり、またその一方で、他者と関わらなくてはならない、他者に配慮しなくてはならないという強迫を与えるものでもある。