ジェイムズ・モナコ 『映画の教科書 どのように映画を読むか』 : モノリスに触れよ
書評:ジェイムズ・モナコ『映画の教科書 どのように映画を読むか』(フィルム・アート社)
私が、この2年ほど、映画を研究的に見るようになったのは、ジャン=リュック・ゴダールの作品との出会いがあったからだ。
しかし、面白かったというのではない。面白くなかったのだ。正確に言うなら「ゴダールは、何がやりたいのだろうか?」という疑問を持った。「これは普通に楽しめる娯楽映画ではないし、なんでこんなものを作るのか?」というところに疑問を感じたのである。
無論、私がこう考えるのは、それまでの私は、「映画」に「娯楽」以上のものを求めていなかったからだ。しかし、それは何も「映画」に限ったことではない。私が好きな「アニメ」も、そしてあまり読まないが「漫画」も、基本的には「娯楽作品」だと思っていた。
では、「娯楽作品」にしか興味がないのかといえばそうではない。私は「知的な営為」というものを行うためのメディアとしては「活字」を選んでいた。つまり「読書」である。
「批評」であれ「思想」であれ「哲学」であれ、そうしたものは「活字本の読書」を通してやるものと考えてきたし、だから一般に「難解」とされる本も読んできた。「文学」も同様で、それは「読書」の一部であり、「娯楽小説」も読むけれども、それで満足しているわけではなかった。「娯楽小説の読者」に言わせれば「難解」であったり「面白くなかった」りするような、いわゆる「文学作品」も読んだし、それが「何を語らんとしているのか?」を考えることに「楽しみ」を感じてもきた。
だから、私にとっては、「読書」こそが中心であり、その他の「アニメ」や「漫画」、そして「映画」は、「息抜き」のためのものでしかなかった。また、そのために、「娯楽」以上のものなど求めていなかったのだ。
もちろん、それらの中に「文学」同様の「深い内容」を持つものがあっても、それは歓迎すべきことであり、これらのジャンルに対して「娯楽であるべき」だとか「娯楽に徹すべき」だとは思わなかった。「面白くて、深ければ、それに越したことはないじゃないか」という感覚だったのだ。
言い換えるなら、これらのジャンル、つまり「文学以外のジャンル」については、やはり「娯楽」という要素が大前提で、その上での「プラスアルファ」として、どれだけの「深い内容が盛り込めるか」というふうに考えてきたのである。
だから、私は基本的に、「文学以外」では、「実験作品」とか「前衛作品」といったものには興味がなかった。そういうものは「文学」において足りているし、物事を考えることにおいても「批評」や「思想」や「哲学」で足りているのだから、わざわざ「アニメ」や「漫画」や「映画」で、それをやってもらう必要はないと、そう感じていた。「そういうことをやりたいのなら、そんな回りくどい手法を選ばずとも、率直に活字でやれば良いではないか」と、そう感じていたのである。
だから、ゴダールの作品に出会った時、それは追悼上映されていた『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』だったのだが、これらの作品が「理解不能」だった。
たしかに『気狂いピエロ』の方は「ビジュアル的」には非凡なものが感じられた。だが、そもそも「大した筋が無い」し、「何を語りたいのか」も、さっぱりわからない。
少なくともこの2作は、普通の意味での「娯楽性」が皆無で、「(当たり前に)鑑賞者を楽しませよう」という意志が感じられなかったのだ。
で、その後、ゴダールの作品や、その周囲の「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品、あるいは、それ以前のサイレント作品なども研究的に見るようになり、併せて、ゴダール関連の評論書などを読んでいくうちに、ゴダールは「そういう作家」なのだということが、おぼろげにわかってきた。
私が『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』に「娯楽を求める鑑賞者を拒絶する」ようなスタンスに違和感を感じた、というのは、私がゴダールの「作品をわかっていなかった」のではなく、ゴダールの「スタンスがわかっていなかった」のだということに、徐々に気づいてきたのである。
だが、では「なぜ、ゴダールは、娯楽作品であること拒絶するような映画を作るのだろうか? そもそも映画とは、娯楽商品ではなかったのか?」と、そう考えるようになって、ここで「映画とは何なのか?」という「そもそも論」に向かうことになる。
「どうやらゴダールは、映画が娯楽であることを、自明の前提とはしてはおらず、むしろそれを拒絶して、もっと別のものを目指しているようだ。例えばそれは、純粋芸術としての映画といったもののようにも思えるのだが、そういう理解でいいのだろうか?」と。そして今度は「そもそも、映画とはどういうものだったのか?」と、そう考えるようになり、「ゴダール論」に止まらない「映画論」に、興味を広げることになったのである。
そこで、その手始めに読むことにしたのが、「菊版(B5版)二段組、400ページ超」と浩瀚な本書、『映画の教科書 どのように映画を読むか』であった。
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本書には、「映画とは何か」という「そもそも論」には止まらず、映画を成立させている「技術論」(例えば、フィルムの構造、ビデオの構造などなど)から始まって、映画の歴史と共に展開してきた関連ジャンルとしての「テレビドラマの歴史」や、「前史を含む、映画の発展史」などを解いた上で、ごく常識的範囲での「映画の読み方」までが、幅広く語られている。
本書が『映画の教科書』と題されているのも、このように「映画の基礎の基礎」から語っている、言うなれば「基礎論」だからであり、事実、本書を「教科書」として使用している映画学校もあるそうだ。
本書は、小手先の、あるいは、上っ面だけの「映画理解」ではなく、映画というものを、その発生史に遡り、かつ社会史の中に位置付けて、その本質を総体的に捉えようという、壮大とも言えるスタンスに立って書かれた、「基本書」なのである。
少々長くなるが、本書が、どういうものかを紹介するために、「訳者あとがき」を引用しよう。
本書著者のモナコや訳者は、何を考えて、こんなに「面倒」なことをやっているのだろうか?
それは、「積極的に鑑賞する」という行為は、もともと努力を要する「面倒」なことであり、ボーッと映像を眺めているだけではできないことだ、というのを大前提としての、「知ること(基礎教養)」の重要性の確認である。
「映画を見ないで映画を語ることは不可能」なのは自明なことだけれど、「映画だけを見ていても、映画は語れない」というのは、映画マニアたちが認めたがらない「事実」である。
だが、「映画」であれ何であれ、その輪郭を画するのは「それ以外のもの」があり、それがあって初めて「存在し得る」し「意味を成す」というのは、自明な話だ。つまり「地があって、初めて図は浮き上がる」。だから、「映画だけ」ではダメなのだ。
一一で、私が上でした説明程度のことも理解できないようでは、映画を何万本見たところで、見た映画の「本数自慢」と「(断片的な豆)知識自慢」しかできない、ということだ。
入力した「(作品)知識」を「分析・整理」できないままの混沌とした頭は、「未整理の詰め込み倉庫」以下のものでしかないのである。
そして、そのそのわかりやすい実例が、Amazonの本書紹介ページに、カスタマーレビューを寄せている、「セイント」氏である。
セイント氏が、何を言いたいのかと言えば、要は「普通の映画ファンは、アカデミックではないので、本書についていくことはできません。もちろん、私もついていけなかったし、読み通すこともできませんでした」ということである。
というのは、すべて「自分が凡庸であることを否定するための難癖」であり「言い訳」でしかない。
だが、こんなものに「参考になった(好き)」をつけた人が「9人」もいて、決して少なくないという点を見逃すべきではない。なぜなら、それが意味するのは、こんな「専門書」に興味を持つような「映画オタク」ですら、「知的レベルは高くない」という、何よりの証拠だからである。
特に注目すべき言葉は最後の『実質性はまるでナシ』で、ここで「セイント」氏のいう『実質性』とは何だろうか?
「本読み」の方ならすでにお気づきだろうが「読めない」映画オタクのために解説するなら、これは「専門的すぎて、知ったかぶりのひけらかしには役立たない」ので、(自分たちのためには)「実用的な実質」(が無い)という意味である。
ちょうど先日、映画評論家の山田宏一の著書 『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』のレビューにおいて、私は次のように書いた。
このように皮肉ったこと、そのまんまのことが、本書『映画の教科書』が気になるような「映画マニア」の口から、端なくも吐露され、自供的に証言されているのである。
一一これでは「映画を見るだけなら、ネコでもサルでも出来る」と言われても、仕方ないのではないだろうか。
で、話をジャン=リュック・ゴダールにもどすと、ゴダールはこういう、頭が悪いだけではなく、志の低い客ばかりを当てこんだ映画を作りたくなかったのである。つまり、通俗的なだけの「商業主義映画」に加担したくなかった。
本書著者が言うように、作家と観客(芸術家と鑑賞者)が作品を挟んで真剣に対峙するという、その弁証法的な関係において、より優れた作品を生み出すような、そんな「問いかけ」として、ゴダールは、あのような「難解」とされる作品を作ったのではないだろうか。
だが、敵もさるもので、そういう「難解な作品」に対しては、「作品と対峙する=解釈を行う」ことを避けて、ただ「素晴らしい」とか「美しい」などという「内容空疎な、一般論的な言葉」を発するだけの「知ったかぶり」をするようになったのである。
彼らは「ゴダールの作品」を、作品と向き合うことで楽しんでいるのではなく、作品と向き合わないことで、「ゴダールの権威」だけを利用し、それを楽しんでいるだけなのだ。
また、だからこそ彼らは、「わからない」という言葉を、決して口にはしないし、「わからない」ところから「解読」へと赴かないから、いつまで経っても「わからない」のだけれど、それで満足しているのである。
こうした批判に対し、「私は違う」と、そう言える人が、一体どれだけいるだろうか?
いずれにしろ、「わからないゴダールを、わからないまま自慢のタネにする」ことほど、ゴダールを侮辱した扱いもないのではないか。それこそが「大衆的な(人民的な)裏切り」ではないのか。
しかしまた、それに怒りを覚えるゴダールファンがほとんどいないというのは、自称ゴダールファンの大半が、こうした「知ったかぶり」の手合いだからだろう。シオドア・スタージョンの次の言葉を引いて、私がいつも言うように「あらゆるものの9割はクズ」なのだ。
また、だからこそ、知的にゴダールと向き合えるごく少数の人たち、例えば、蓮實重彦などは、『乳臭い牝牛みたいに愚かな善意で目を曇らせ』るのではなく、わざと「難解」な書き方をして、読者を打擲・挑発しているのではないだろうか。
今の時代、「平易に、わかりやすく」というのは、当たり前に「良いこと」とされているのだけれども、いい大人に対して、離乳食だのオムツだのをあてがい続けるというのは、決して正しいことではないはずだ。
ゴダールの作品、あるいは、難解なゴダール論と正面から向き合い、それと対峙する。つまり、それに「触れる」ことこそが、猿が人間になれるか、猿のままで終わるかの、岐路なのであろう。
その意味では、ゴダールは、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に描かれた「モノリス」のようなものだとも言えるのである。
(2024年7月4日)
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