先読み(未来を予見する)し過ぎると、策に溺れるので、ある程度の希望的観測におさめたほうがよい。こうなったらこうなるから、、、と自分が中心の先読みをしていると、足をすくわれるようなことが起きる。実際は当たり前、というか、基本的に先のことなんて決まっていないしわからないですから。
95年ほど何を信じて生きるかに想いを馳せた年はない。世の中を震撼させる出来事にメディアは一色となった。後に村上氏による「約束された場所で」等を読むもいまも分からない。否答はないのかもしれない。自由な価値観で生きられる中、認められる証への渇望であったか?現代と違い意図して、である。
教訓や感動に押しつけがましさを感じさせてしまったら失敗。これはその通りだと思った 心から、教訓に有難みを感じなければ、やはりその人の中には残らない。絶対的な価値を保障してくれるものも「無い」からこそ見方次第でいくらでも白けさせれてしまう 驕った表現はやはり、失敗である