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◆結局、人の行動選択の全ては“引き”の運で決まる

 占いビジネスが良いか悪いかは別にしても、これが成立しているにはおおよその理由があるからなんじゃないかね。いくつかそれっぽい未来が占いで見えたように語っておけば、いくつかは当たるようなボヤっとしたロジック。

 未来がどうなるかなんて99%わかるわけがない。人は、ちょっとしたことで命を落とすくらい脆い生き物だし、レジャーだ旅行だと遊びに行った時に事故で亡くなるケースも毎年のように起きている。

 大分で起きたバイク追突ひき逃げ事件からまもなく一年が経とうとしている報道が盛んに流れているけれども、ひき逃げ犯と出会うことさえなければ起きなかった事件だとも言える。

 人との出会いというのも行く先々でいろんな人がいるわけで、学校や会社、プライベートにおいても、どんなに普段自分が気を付けていても不意に危険な人物に遭遇してしまう事故のような出会いもある。その日、その時間に、その場所にさえ行かなければ巻き込まれることはなかった事件事故。

 そういう時にこそそのような後悔というものを人はするもの。想定外の、予測不能なことが起こることが大前提であるはずなのに、普段、人はそのことへの危機感など持ってなどいないし、起きる度に「まさか」と思う。

 どんな結果に至ろうとも、たった一つの選択でその結果に至るのではなく、そこに至るまでの無数の選択の連続で至るのだと考えれば、「正しい選択」などというものはないのかもしれない。

 そう考えると、世の中のほとんどのことは「偶発の産物」であって、何の確証もないまま動き続けているのかもしれないとも言える。それも、天文学的な確率で。

 麻雀を知る人ならわかるかもしれない。まず最初に、4人が東南西北どの席に座るかを選び、賽を振って、配牌を取っていく。そして、配牌の並びを見て、アガリのイメージをしながら牌を川に捨ててはツモる、流局までに20回ほどツモるわけだけれども、ほとんどはイメージした通りに事は進まない。

 自分以外の3人の川に並ぶ捨て牌を見て、それぞれが待っている危険牌が何なのか、それを回避しつつ牌を捨てていくわけだけれども、読み切れなければロン牌を献上することになる。

 極稀に、配牌時にリーチ状態だったり、天和地和でアガることもあり、他3人は何もできずに点棒を渡すことになる。言ってしまえば、人がこの世に生まれ落ちることも麻雀の配牌に等しい。

 平等という言葉には昔から違和感しかない。人生が始まった瞬間から全ての人々は平等ではない。生まれた時代も違えば、家庭環境も違い、社会全体が置かれている状況だって当然違う。

 にもかかわらず、昭和の頃に植え付けられた古い常識に縛られ続けている人たちはまだまだ根強く存在する。それでも、コロナ禍が始まって、急速にそうした古い常識や規則が議論のテーマに挙げられるようになり、社会は新たなフェーズへと移行し始めた。

 高校球児の坊主頭も廃止され、基本的人権の尊重として髪型が自由化された高校が増えている。昔、小学校を卒業して中学へ入学する時、野球部でも何でもないのに全男子生徒は坊主にしなければならず、母親にバリカンで刈られた時、私はあまりの恥ずかしさと屈辱に泣いたのを覚えている。

 そこに一体どんな正当性があったのかを問うても、おそらく誰一人として答えられないだろう。思春期にそうした辱めを受けて3年間を過ごした人たちは何十万人じゃ済まないくらい多かったに違いない。坊主頭が中学生らしい髪型だとでも言いたいがための校則だったのかもしれないが、この一点だけでも、学習意欲を削ぐには十分だったと言える。

 あの当時「らしさ」の押し付けが当たり前だったことを考えると身の毛もよだつほど気持ち悪い決まりごとがたくさんあったなと思う。あまり地元を悪く言う気はないけれども、そこで過ごしたおよそ15年はイヤな記憶で詰まっている。

 おかしいことがすぐネット上に拡散される現代社会では、おかしいことをおかしくないとは言えないし、隠し切れない。

 人によって「生まれ持ったもの」だって違うはずなのに、学校教育ではみんな同じように教育しようとするけれども、そこに選択の余地を与えないのは、人の生き方や将来の可能性を縛るもので、その縛りから外れた者たちを悉く異常だと罵る風潮は現代社会でもまだまだ根強く残っている。

 高校を卒業するまでに、なんとなく周りに合わせて過ごしてきた人たち、その多くは、10年後、20年後、想像を絶する苦労を強いられる。それが今であり、これからなのだと今誰もが肌身で実感していることだろうけれども、今までそうしてきたからとか、これが〇〇というものだ、などと正論のような言い回しをして個人の意思を縛り続ければ、人は考えることを放棄することになるかもしれないね。

 言われたとおりにやっていればいい、自分の頭で考えられない指示待ち人間のことを小バカにして罵る先輩や上司がいるような組織ではイノベーションなんか絶対に起こせないでしょう。だから、そういうことを言って抑えつけるような人間がいるなら、いちいち口答えせずに従っているフリをして自分で工夫して事を進めればいい。

 それすらも我慢ならないなら、環境を変えるという選択をするといい。一番は、一人でも二人でも、そうした自由な発想やアイデアと向き合い、必要に応じてGOサインを出すような臨機応変な先輩や上司がいること。会社全体がそういう風土であるならなお良い。

 ハッキリ言って計画を立てさせてKPIにこだわるやり方は、実際の結果とは常に乖離することがほぼわかっている。目標を下回ったらダメ評価、これを繰り返しているからモチベーションも上がらないまま惰性で作業するようになるんじゃないかね。

 何をやるにしても失敗は避けられないでしょう。何をやるにしても試してみないと次の修正ポイントは見つからないでしょう。そうやって軌道修正しながらゴールに向かって進んでいくのが人間のはずではないのかね?型にハマったやり方に固執してるから気付くべきことにも気付けないんじゃないかね?マニュアル人間を量産しといてマニュアル人間を小バカにしている光景というのは見ていて呆れてしまう。

 ほとんどのことは科学であって、研究・検証の繰り返して向上してきたと言えるよね。新しく始めることならなおさらのこと。「とりあえずこの案を試してみよう」それに対する好奇心を増幅させられる企業が成長する。これは断言する。

 わざわざやりにくい工程を踏む作業や大して意味のない作業をこれまでに倣って継続する必要はない。それに代わる案を出して試せばいい。そこに人や資金を投じられないのであれば会社経営なんかやるなって言いたいね。雇用形態では分別できない部分だよ、それは。

 スーパーアルバイトリーダーみたいな人がいるでしょ。店のことを熟知していて、予期せぬ事態が起きてもどう対応すればいいかが瞬時にわかる人。雇用形態ではなく、どれだけ現場に精通しているか。その部分で適正な評価をする社会になるといいね。それであれば、頑張り次第で道が拓けるかもしれないという希望だって持てるようになる。

 あと、真面目に仕事をしている人の足を引っ張るようなふざけた真似をするヤル気のない人はどんどんカットしていいと思う。仕事をするために働きに来ている人の邪魔をするような人は百害あって一利なし。仕事上の妬みや恨みなんてものに意識を囚われるような人はどうせ大した仕事もできてはいない。

 会社に対する文句、上司や部下に対する愚痴、そういうことも他に漏れれば立場を悪くする、そういう危機感が薄い人は人の上に立っちゃダメよ。子供じゃないんだから。

 もちろんね、個人の仕事に対する向き合い方にも大いに関係することではあるけれども、会社も、人を管理する上の立場にいる人も、従業員のモチベーションを維持向上するような体制は必要だよね。

 会社組織内で起こるあらゆるハラスメントは、全てその時々の「感情」が招くこと。感情の自制ができないなら、それこそ人の上に立ってはいけないし、どんな人かを知ることも、それを試す社員教育も、雇用主の管理体制次第。取引先のクライアントや個人客に対して暴言を吐くような社員を生み出さないために、リスクアセスメントは個人レベルでやらないといつだってそういうトラブルは起きかねない。

 世の中で起きていることから学ぶべきことは非常に多い。なんで?どうしてそうなった?という関心はどんなことにも向けておくといいよね。環境や時代のせいにするな、そう言いたい人たちもいるけれども、全てが自己責任と言ってそのあとを考えない物言いも優しくないでしょう。

 現代社会を細部まで知ろうとするにしても一朝一夕にはいかない。時間を投じるなら毎日起きていることくらいは意識を向けていかないと、「ふーん」くらいで思考が働かない状態がずっと続くことになる。

 文章読解力がない人たちが多いと言われている現代、それに関しては間違いなくネット社会の弊害だろうと言える。その上ChatGPTに頼るばかりになると、なおさら自分の頭で考えられなくなるし、人工知能が書いた文章の読解すらもままならなくなる。

 結局、人が扱うどんなことも、その一つ一つに対する適切な理解がなかったらミスは起こる。道具、言葉も、能力も、腕力も、仕組みも、機能も、アイデアも、それがなんであっても、自分の両手で扱うものは可能な限り理解を深めていかないとね。冗談やおふざけも度が過ぎれば犯罪者にだってなりかねない。

 今までよりも真面目に人と語る習慣を持てるといいかもしれないね。真面目に人と語るということは糖分も思考のスタミナも必要。やれと言われて誰でもすぐにできることではない。

 人は誰でも、自分が何かに真面目に没頭する自分のことは好きになれるでしょう。他人がどうであるかよりもそのことを優先したらいい。そうすれば、いちいち人のせいにはしないし、会社や上司部下に対する愚痴なんかも言ってる時間すら惜しくなるはずだから。

 誰かが人のことを悪く言っていたら、その人に言えばいいんだよ。「そんなこと、私にとっては取るに足らぬ小事です。」と。ちょっと冷たい言い方かもしれないけれども、相手だってこちらが何かに真剣に取り組んでいたり考えていたりする時にそんな話をされたら邪魔だということに気付かないといけない。

 手持ちの配牌からアガるために、感情は必要ない。人を相手にするのなら、良い結果へ向かうために、必要なことはやらないといけない。でもね、時にはアガリを放棄して振り込まないように努めることも大事なんだよ、麻雀は。毎度毎度アガれるほど簡単ではない。

 年がら年中100%で頑張れる人間はそうそういない。それができたとしても正しいとも言い難い。パフォーマンスにこだわるなら、休むべき時は休むというのも大事。自分の意思で、自分の判断でね。どんな大義があっても自分が壊れるまで頑張ってはいけない。一度壊れたらそのあとはこれまで通りにはいかない。

 役満が狙えそうな配牌だと視野が狭くなる。大方、そういう時は他3人からも警戒されているし、早くアガって役満を封殺することもしてくる。なんでもほどほどに、気長にやるのがいい。

 良い引きができたら、その時はそれを楽しめばいい。良い引きなんて滅多にできないんだから。

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