理には現実には存在しない言葉と概念に依存する知とがある。
物を収めるべきところに収めるように、我々もこの世界の法則を知って、それを腑に修めることで心の整理を付けられる。例えば、この世界は自分の思いが生み出しているということを理解すると自分の心を整えようと思えるようになる。整理とはこの世界の理(ことわり)を知って自分自身を正すことである。
どんどん、変わっていく。どんどん曲も私も命も景色も全てが帰化していく。私であって神様であってっていう方向に統合していく。宇宙と統合していく感覚。抵抗しないことが今の課題。
中秋の名月から満月の空 慈悲心や愛が浮かびます 偏見に反感 たとえ避けられても 大我だからこそ 大我でなければの 忍耐を伴う優しさやしなやかな強さ 真だから傷も怖れない利他の縁起 そこにまた研磨あって 無償の愛 泡沫にある 軽薄な虚ろいを隠した いつわりは さよなら
「のぞむ」。「ウォント」ではなく「シー」。臨むとは観察すること。力を抜いて観察していると、自然と物事の理が見えてくる。理に従って生きれば、悠々と生きていくことができる。ウォントで「のぞむ」と肩に力が入り焦点が狭まってしまう。シーで静かに臨めば、今すべきことがすっと理解できる。
この世の中に、この世の理(ことわり)というものがもし存在しているとするならば わたしは、無理なく気楽に流れるがままに生きる ことを選択するであろう 何にも抗うことなく、この世の道理に従い、ただただ流れるままに生きる まさに無為自然
どのコトワリに 従って 生きるのか 在るのはただ それだけだ
理は潜んでいる。現象がくっついてくる。
暗暗裡 鯉を埋めたら 百哩 俚謡で歌うは 狸の理 あんあんり こいをうめたら ひゃくまいる りようでうたうは たぬきのことわり
生命の螺旋の働きそのもののなかに神がいて、巡りうつろいゆくことに計らいがある。 全てが反転し、見える世界が変わろうとも、生命の働きがこの身体に宿る"理"は変わらない。 世界を貫く理のなかに地球と私を結びつける真実があり、それは生命の賛歌。私たちの内側にその歌声が響いている。
人は己だけの世界を持ち、それにのっとった信念を養う。そんな他人を思うように動かしたいのなら、首輪をつけて引きずり回すか、利を提示するしかない。理をもって説得できるとは思わない方がよい。その理自体が、その人独自の世界観に基づき組まれたものなのだから。