nuinui

αὐθεντικός θέλημα εντός ἡσυχίᾳ. https://booklog.jp/users/p42r32

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最近の記事

象徴と解釈

「言―真理」キリスト教の理解は、基本的に解釈学に基づく。解釈は、正しいものとして一意に導出できるものではなく、想像力を用い、柔軟に様々に行われるもの。キリスト教のテクストは表現技法をも駆使していることで、そもそも言葉通りに受け取るようなものではない、と捉えることができる。 キリスト教は真理に従い理に適う、調和した営みを善とし、それが救いである、ということを伝える。 誇張と比喩といった修辞を駆使し、理解を超えた神秘性や信仰心からの恩恵を神の顕現とし、その象徴を伝え、動揺や畏

    • 自然からの感受とその表現

      scientia intuitiva や imaginatio といった作用、非線形性、不確実性、そして不可知性により生じる希少な想起はカオス的であり、神秘的で、その働きは恩恵となり、創造性の源泉となる。このプロセスは神概念やその知覚にも深く関わっている。 ratio intellectus の一連の働き。natura からの感受が conatus の指向により imaginatio に受け取られ、cogitatio として、intellectus による scientia

      • 畏敬と内面的創造性

        検証不能であることから、心理的に真実と認識せざるを得ないものは、信念や直感からの創造的な解釈により生まれる。確立された客観的基準の枠を超えて、新たな理解を創り出す自由。この自由こそが創造性を刺激し、個々の世界観を形作る。 不確定性と不可知の中での認知と事実。あらゆるものは明確に解明され、理論的に理解されたとされている。しかし、真の真実として受け入れるものの多くは、理解を超えた体験に基づく。 超自然的な出来事や自然に対する畏敬、そして知覚の限界を超えた体験は、時に「不可知」

        • 苦から歓喜へ

          αὐθεντικός、自然理解に基づいた conatus による自然との一致。それによるディオニュソス的歓喜と、そこから得られる自然な自由。この自由は自らの内なる信念に由来し、外部の一切に影響されない。 αὐθέντης、目的にために絶つ者。既存の秩序を無化し、新たに創造する力。それを、自己を統べる実行者。自己否定、破壊、再生、これらのプロセスを通じ、αὐθεντικός に到達する。 αὐθεντικός は αὐθέντης の成就。自分に死ぬことであり、アダムへの回

          慈しみへの道としての制作と祈り

          個々の感性による、はかれない営み。制作は祈り、祈りは慈しみ、慈しみは実践。人間性とは感受性。 自然そのものその営みを慈しむための文化的営みとしての詩や絵画、何らかの創作や制作とは、感じ取ったものへの想いから、それを表現し伝えたい、と思ったことを形にすること。 自己に完結しない、その作品を通じた祈り。作品にしたい、伝えたいと思ったその対象、それをその作品から受け取ってくれる人を想う営み。 非言語的な感覚を通じた、自分と相手、そして自然全体との対話。作品を媒介にした、他者と

          慈しみへの道としての制作と祈り

          価値・畏敬・尊厳

          自然と理性 理性 ratio と本性 natura の間に明確な基準は存在せず、その境界づけは価値判断に依存し、互いに対立項とはならず優劣もない。感情は natura でそこに意味を付与するのは人間理性 ratio humana であり、捉えたものに価値を付与し、判断したものが善悪や正誤。基よりすべては natura である。 例に「怒り」、その正当化の是非や表現方法は理性的な判断に依存、理性は感情を評価し、適切な行動をとるための指針を示す。その評価や基準は文化的、社会的

          価値・畏敬・尊厳

          神概念の認識とその役割

          知らないこと識り得ないことを認識することが、「神(としか言い得ない自然の法則の理解)」概念の重要な役割の一つ。人間理解から理想を投影したのが神というよりは、人間学により限界と可能性を示したのが神。神認識とは、知識の限界の認識、未知の存在への尊重。原罪は「人間の限界の認識」、神と人との隔たりを表わす。 善悪は人間の価値判断であり、本来の人の属性的に扱い切れるものではない。そのためキリスト教においては聖書(自然の理解)に準じてるかどうかで判断され、イスラムにおいては「無信仰は生

          神概念の認識とその役割

          λόγος の言葉としての役割と発展

          λόγος の理解 聖書での λόγος は単に「言葉」と訳されるが、その本来の意味は多層的であり、宇宙の秩序や自然の法則を表す重要な概念である。 ヨハネによる福音書の冒頭において λόγος は神―言葉(宇宙の秩序や自然の法則)であり、キリストの本質とされ、それは創世記の「言葉によって世界が創造された」という考え方と密接に結びついている。 この文脈での λόγος は、単に言葉や理性を超えた、神の本質や創造の根源 ἀρχή に関わるもの。 しかし、この二か所での「言

          λόγος の言葉としての役割と発展

          終末と救済

          自己の外部化としての終末 「終末」は、自己が存在しなくなった後の世界。死後、主観的には消え去るが、他者や世界において自己が「外部化」したものが残る。作り上げたものや残した行いが直接的間接的に他者の内面にとりこまれ、成長変化していくことにより、自己は完全には消失することなく、他者が構成する世界に外面的内面的に残り続ける。死により確定され、完全に譲渡された「完成された自己」が引き継がれ、発展する。終末は普遍的な存在としての残存を意味する。 記憶の継承と生き続けること 「記憶

          終末と救済

          無神論と虚無を超える存在の意義

          世の無常と虚無感 過行くものとの関係:世を「はかなく、移ろいゆくもの」としてのみ認識することは、虚無感にもつながりえる。過ぎ去るものへの執着からの解放が救いにならず、絶望につながる要因。慈しみ、特に「慈しむことのできる目の前の存在」へそれが欠落すると、精神的な救いを見出せなくなることも多い。 慈しみ:過去の記憶や価値の継承を通じ、今の瞬間に意味を持たせる力をも持つ。人間の経験や関係性は一時的であるものの、その本質や存在への愛や慈しみがあれば、虚無感を防ぎ、また乗り越える力

          無神論と虚無を超える存在の意義

          自己と世界の調和と循環

          自律 自分自身を把握する、精神の核心という形をとる洞察力。凡てを自己として捉え、概念化し、潜在的なものを顕在化させる営み。 対し、神の国の信仰と対峙する洞察力は啓蒙思想であり、疎外の完全体。 実用性と自身の信仰により現実の権威は無効化され、自由を得る。そこで必要となるのが社会性。 社会性 社会における自己意識にとっての価値。法の下の平等、精神を欠く法の普遍性は性格上そのままに受け入れることで成立、正統と認知される。 対し道徳は、共同体にとって相応しい存在であること

          自己と世界の調和と循環

          自律的思考の重要性とその促進方法

          根幹となる思考様式を基盤とした理論や理解の一例と、思考様式を深め育むための枠組みの提示 自律を目指すための思考様式を洗練し、それに基づく理論や理解の一例を示すことは、個々人の自由な探求を促進し得る。思考様式はその人自身の内的な理解を深め、他者に依存しない判断力を養うための基礎を提供する。この枠組みを用い、自分に合った方法に刷新し適応していくことで、各個人は自らの状況や価値観に応じた行動を自由に選択することが可能になる。 一般に、特定の思想や指針を示し、それを前面に出すアプ

          自律的思考の重要性とその促進方法

          無為自然と人間性の超越

          無為自然に向かう道は、他者との関係性における超越ではなく、「人間性」そのものの超越を目指すもの。ニーチェの Übermensch という概念も、この考えと関連する。しかしそれを「対人」的に捉えると限界と制約が生まれる。なぜなら、真の自由は他者との関係や競争を超越したものであり、他者を敵視したり比較することで得られるものではないため。 実践の過程では他者との比較は避けられず、理解を深めるためには他者の経験や視点を学び、それを自分のものとして取り込むことが必要。しかし、この比較

          無為自然と人間性の超越

          神の不可知性と位格の理解、及び神と被造物の関係性

          神の不可知性 不可知である神は οὐσίᾱ(本質)として実体、本質をもち、三位格としてあらわれるためには ὑπόστασις(基体) として父、子、精霊のかたちをとる。οὐσίᾱ は「在る」けれども捉えることは出来ず、ὑπόστασις としては捉えることができる。οὐσίᾱ は ὑπόστασις の根源。 φύσις(自然)は神の本質的な性質を指し、三位格は神が具体的にどのようにあらわれるのかを示す。「三位格としての役割」はοὐσίᾱ の φύσις としての側面、「

          神の不可知性と位格の理解、及び神と被造物の関係性

          超越的なものの理解と実践

          既存の体系を否定することなく、超越的なものを理論として捉え、科学や哲学と調和させ、認識を補う枠組みとしてフィクションを活用し、理解と実践に結びつける試み。 「神は人格的な存在ではなく、宇宙の秩序や自然の法則として仮に捉えることのできる、捉えきることのできない永遠のもの」から、「死ぬもの死なぬもの含め、全部一」とする理解 。位格理解は総合的に見て、枠組みとして捉える。三位一体としてのではなく、一のうちに存在し関連しあう、視点や仕組みの理解として。 「神と位格のレイヤー」。神

          超越的なものの理解と実践