悪法もまた法なり
小生が気持ち悪いと感じているのは恐らく、国も民も何処を目指すのか、何が欲しいのか、考えずにぼやーとしている所だと思う。
それが、集団というものの性、集団というものに働く宇宙の理というようなもので、責任の所在が無くなり、集団にも個にも主体が無い状態になる。それはつまり、何を欲するのか、何を欲して集まったのか、分からないまま慣性で進むスペースデブリ、幽霊船。
人は自活できなくなってからも、世話して貰い、お荷物になっちゃってすまんね、と思いながらも出来るだけ長く生きようと思うのだろうか。
私はただただ優しさだけでとか、義務とか倫理観とかで世話してくれるのは心苦しいなあ。「あなたを失うのが嫌だ。」とか、「ここであなたを失うのは惜しい。」とか、「まだあなたは必要な存在だ。」とか、明確なそちら側の理由があってなら、世話を受けたい。それには、ひとかどの価値にまで成長しておきたい。自活できなくなった時に差し伸べてられる手が無ければ、それがひとつの自身を測る物差しであろうと考える。「好きだから死んじゃ嫌。」と言ってくれる家族や仲間ができていることもその内に入ると思うし、知識や経験や能力が惜しまれるのもそうであろう。
だから、『保険』という考えが気持ち悪い。
自動車の運転における賠償責任保険等の突発的偶発的に生じる大きな損害に備えて、みんなでちょっとずつプールしておきましょうね、というのは素晴らしい機構だと思う。
しかし、老後に生産力無くなった時のためのお金を預けておきましょう、また、預かりますよ、なんてのは意味が分からん。自分で貯めといたらええやん、やし、人の金預かる生業なんていうのが邪(よこしま)やん。銀行からそうやけど、本来の意味での「預かる」やったら、なんのメリットも無い。リスクしか無いよ。預かってるものを損う可能性を持つだけやもん。しかし、それを喜んで引き受けるというのは、『「返して」と言われるタイミングで返しゃあええだけのこと、それまでは俺の自由』という『運用』という概念?詭弁?を発明、そして容認されてるから。
預かる側も預ける側も気持ち悪い存在やわ。
自活できない、生産力無い、ってなったら姥捨山に去ろう。そうやっていた時代もそう遠くないし、動物界も植物界も、自身の身体を観察してみても、そうなってんちゃうかなあ。野良猫も事故死以外の亡骸は見ないし、象なども死期には群れから離れて行くという。自身の体を見ても古い細胞は脱落し、内から新しい細胞が起こり新陳代謝しているように見える。組織はそれが自然態だと思う。
つまり、人の群れも古いのは脱落し、新しい生命が起こり、活力・生産力のある群がいつも多くある状態が望ましい。
つまり、なるべく長く生き長らえたいということを叶える方向に組織が決定するのは誤っていると思うのである。生命の本能・法則として個体が生き長らえようとするのは自然であると感じ、受容するが、組織は活力のある細胞で満つることを目指し、古い不全を削ぎ、新陳代謝を促進する方向を目指すべきであると。それが組織の本能であると。
年金保険は誰も得しない。民も国体も。運用の者以外は。
健康保険も仇なす存在。
「病院行ったらええわあ。」思う奴を増やすばかり。
治療は高額なもの、として、自身の健康をもっと考えるべきであろう。
しかも、病院の治療で最適なものを求めたら保険適用外でっせ。
本来、治療って最善一択ちゃいまっか。
なるべく、不具合前の状態に戻して欲しいのが治療に求める所やん。
だがしかし、健康保険は弱者救済、「全ての人に医療を」の目的で設けられていて、適用の治療は最低限にとどまる。本気で本気の治療を求めるならば、結局実費である。
国体は何処を目指すのか。運営者は誰も考えていないのではないか。
国っていうのは主体的な為政者は居るのか?
(どんな者でもいいから)人口の多さを競っているのか?
私は自身の体を見るときに、活力のある状態を望み、細胞の循環を期待し行動する。
国体に置き換えても、健康で活力のある細胞が多く、不全の状態の細胞は少ないことが望ましいと考える。
そして、細胞に当たる民にも問いたい、何を求めて生きるのか、と。
長く生きることを目指しているのか。
それとも、長さは問わず、存在する間に何をするか、何を感じるか、何を残すかに重きを置くのか。
漫然と生きるのが生命なのかもしれないが、
なんかヤなんだよなあ。(堪忍観念。)
『社会』とは、ただの概念、幻想であって、『実在すると勝手に勘違い』しているだけなのだろうか。 人工に秩序なんてできないのだろうか。
生命は特に自律なく、自然の柵の中でがちゃがちゃっと生きるものなのかな。
それならそうとした方が、呪縛が解けて楽しく生きられるのかしら。