Makoto Shirasu
身体をゆっくりと動かし、ストレッチをしながら「離散と連続のあいだ」を感じ、考えている。 たとえば、「側屈」の動きを考えてみる。 身体の片側の側面が伸び、そしてもう片方の側面が縮む。 どのように動いてゆくと、適度な身体の伸び縮みが生まれるのだろうか。 何度も何度も試行錯誤しながら「早く動きすぎてはいけない」という感触を得た。 つまり、じっくりと、ゆっくりと、自然な呼吸が続く範囲で身体を動かすのである。 この「じっくり、ゆっくり」が「離散と連続のあいだ」について考える
「適度に空腹感をつくる」 人それぞれ、一日の中で食事のペースがある。 いつどこで、誰と何を食べるか。どのぐらいの量を食べるのか。 医学や栄養学などの様々な学問的な背景に下支えられた、「バランス」をとるという観点で望ましいペースはあるのだと思う。 が、そうした学問が発展する以前は、どのように望ましいペースを見出していたのだろう、という問いが降りてくる。 いつからか「食べたいときに食べる」ことよりも「空腹を感じるまで待つ」ことが大切なのではないか、と思うようになった。
「スクランブル交差点の流れ」 無数の人が行き交うスクランブル交差点。 自分の視界に映る他者の動きを捉えながら、立ち止まることなく歩き続け、そして向こう側へと渡りきる。 至る所で人と人が衝突するように思えるが、不思議と衝突は意識されない(ほどに少ないと思われる)。 まるで、人が人と人の間を「すり抜ける」ような感覚すら覚える。 これもまた一種の「調和」であるように思われる。 これは「動きの中にある調和」であり、よどみなく流れ続ける川のような、それも「縦横無尽に交差する
「しんしんと降る雪の静けさ」 雪が降る中に静けさが訪れると、どこか心地よく、ホッとした気持ちになります。 音は空気(や水などの媒質)の振動ですが、実際に雪には吸音効果があり、空気の振動を吸収することから「静けさ」をもたらします。 あるいは、ひとたび水に潜れば、耳に入る物音が和らいで、どこか穏やかな気持ちになります。 そう思うと、日常生活のあわただしさの中に「静けさ」を取り入れたい、と思うわけです。 「静けさ」を取り入れるとは、自分を囲む世界との「つながり方」あるいは
「記憶と流れ」 何かを思い起こそうとしても、なかなか言葉が出てこない時がある。 そんな時、静止した状態で頭の中を探ろうとするよりも、口を動かしたり、身振りや手振りをつけることで、ふとした瞬間にその言葉が出てくることがある。 来るべき言葉を迎えにいくような感覚であるが、この核心は「流れが周囲を引き込んでゆく力・作用」にあるのではないか、と思う。 忘れていた「その言葉」を発していた頃の私は、流れるように、よどみなくその言葉を発していたはずである。 すなわち、身体動作によ
「木霊(こだま)する」 物理的な音や声が空間において何度も反響すること。 その反響は物理的な空間のみならず、時に心の中で繰り返されてゆく。 「反響」という現象を通じて、物質性を超えた心に対してある種の「空間性」や「広がり」を見出すことができるように思われる。 反響の対象は音だけではないかもしれない。 「心惹かれる」とは物事との共鳴であると記したのだけれど、目にしたことのある風景、空間に満ちた香り、広がる味わい、ふれた物事の感触や質感。 それらもまた、心の中で時間を
「水鏡の向こう側」 水鏡に映る風景はどこか幻想的で、眺めているうちに自分が水鏡の向こう側へ溶け込んでゆくように感じられることがある。 水鏡の「こちら側」に実在する風景の鮮明な美しさが、水鏡の「向こう側」に映り込むことで「あわい」や「ゆらぎ」を伴い、自分から美しさを探りにゆく、あるいは歩みよってゆく余白が生まれるように思われる。 そう思うと、本来的に人に内在している「想像力」が生き生きと働くためには、想像を働かせる対象に多かれ少なかれ「不鮮明さ」が残っているほうがむしろ望
「波長が合う」 時に私たちは人間関係が良好であることを「波長が合う」と表現している。 何気なく使っている表現だけれど、どこか不思議といえば不思議である。 暗黙のうちに、人を「波」に例えているのだから。 日常生活を思い起こしてみる。 目が覚めて、活動し、そしてまた眠りにつく。 感情にも起伏がある。 人は誰しもリズムや周期性、ゆらぎを抱いている点に鑑みれば、たしかに「波動的な存在」であると思えてくる。 人それぞれ、心が惹かれる物事があれば、あまり心惹かれない物事も
「人と人のあいだ」 語りながらも語られぬことがある一方、語られぬけれど語られていることがある。 そこには「伝える・伝わる」という対称性だけではない、「伝えていないけれど受け取られている」あるいは「伝えているけれど受け取られていない」という非対称性がある。 非対称性が向きを持つとき、「傾き」という形で表現されることがある。 水がたまった「鹿おどし」が傾き、倒れ、そしてまた元の状態に戻るように非対称性には「動き、動かす力」が内在している。 非対称性による運動の連鎖が持続
夜が明ける時。 太陽がほのかに照らす地平線は数多の輝き、色に満ちている。 太陽が燦々と光り輝いている時。 眩さのあまり、光に含まれる色を捉えることは難しい。 太陽が沈んでいる時。 星の光に含まれる色を捉えることはできるだろうか。 多様性は何かと何かが穏やかに交わり、重なり合う、その際に見出されるのかもしれない。 際の多様性。
「会話の中にも流れがある」 テーマを決めてから話すのか、話しているうちに自然とテーマが決まっていくのか。 「テーマ(Theme)」とは「主題」であるけれど、「大きなうねり」というのか、「流れの中心軸」のようなものかもしれないと思う瞬間がある。 ひとたび流れの中心軸が決まると、その流れの中に支流としての多様な想いが合流し、融けあい一つになってゆく。 流れの中心の勢いが増してゆくにつれ、そこには躍動的なリズムが生まれ、そして、その躍動的な流れに一度乗ると、会話がそれこそ「
少しずつ空気を吐き出してゆく、全身の力が抜けて水に身体が沈んでゆく。 余計な力が抜けるに連れ、意識が自分を取り囲む水に広がり、解けてゆく。 どこから自分でどこからが水なのか。 自分と水のあいだ、境界が曖昧になってゆく。 何か道筋を見出したいとき、あるいは道筋が見えてくるとき。 それは「深い底から浮かび上がってくる」感覚に似ているのかもしれない。 「浮かび上がる」とはどういうことだろうか。 自らの力で浮かび上がってゆくことも、他者の力を借りて引き上げてもらうことも
「日々の生活が身体に蓄積されてゆく」 ヨガのポーズには片足立ちを伴うものがありますが、足が大地をしっかりと捉えているか否かで、全身の筋肉の使われ方が全く変わってきます。 内体重と外体重。 足の外側に体重が乗ってしまうと、身体が外側に流れてしまい、バランスを保つことが難しい。 一方、足の裏の内側から中心部を意識しながら均等に体重がかかると、内転筋群がしっかり働いて、身体の中心軸に重心が乗り、身体のバランスが安定します。 体重が内側に乗る日もあれば、外側に乗ってしまう日
「ほんの少し余裕をもっておく」 ヨガに取り組んでいて最近心がけているのは「緊張しすぎない状態」を作るということ。 たとえば、両腕を真上に伸ばして指先を組む。 このとき、肩甲骨周辺の筋肉を過度に緊張していると、呼吸が入りにくい、その後の動作で「しなやかさ」を感じにくいことがある。 限界まで挑戦しつつも、そこからほんの少しだけ緩めながら「余白」を作ってみる。 ふと、「遊び」という言葉には、工学の分野において「余白」や「ゆとり」の意味が含まれていることを思い出す。 ほん
どこまでも広がる地平線や、静かな時の中に浮かぶ水面。 眺めているうちに、地平線や水面の静けさが伝播して、波立っていたであろう心が次第に静かに、平らになってゆく。 波がおさまってゆく様に、静けさを見出す。 ふと、静けさは「静止」を意味するのだろうか、と思う。 きっとそうではないのだろう。 朝日が昇る瞬間の水平面、次第に明るさを増して輪郭が膨らみを見せても尚そこには静けさがある。 波一つ立たない水面が見えていたとして、たえまなく湖底から水が湧き出ているのならば、湧水の
昨晩、友人と食事をしていると、友人から印象的な話がありました。 「自分には伝えたいことが沢山あるのだけれど、ピタッと当てはまる言葉が見つからないことがある。言葉は広すぎる」 「言葉は広すぎる」というのは、一つひとつの言葉の意味が多義的であるということ。 言葉の意味の多義性は便利なのでしょうか、それとも不便なのでしょうか。 言葉の意味は、その言葉ひとつだけを切り出せば、たしかに色々な意味に取ることができます。 しかし、言葉が文脈の中に並べられると、他の言葉との前後関係