おおきな木ホームクリニックさんの最新記事を拝読しながらふと思った。『報道しない自由』とやらを行使する報道って、それで利益を得てはならないよね…。報道することで生活しているジャーナリストがそれ言ったらおしまいだよね。人間の生き方の誠実さを見れば少なくとも、どちらが高潔かは一目瞭然。
私は常々「心情の相対化」という事を言っている。 だが、この真意を汲み取る、理解し実践し得るものは今のところ皆無に等しい。 単なる実体無き観念的「相対的意識」ではない。 相対的意識自体は物事を公正に観る一視点である。 此処からが真の自己認識、世界認識のスタート地点でもある。
「非凡の凡、凡の非凡」 非凡とは凡では無い、凡を極めた者は非凡と化す。 さらに、凡の非凡とは無私に至り、それを血肉化し、体得した地点から現実の生々しい日常へと参入する事である。 凡の非凡へと変容した人物は一見極普通の人物と見える。 そのような人物からは異様な静けさが漂う。
「私」というのは、この肉体であろうか? そればかりではあるまい 感情であろうか? 思考は私だろうか? そうでもあるまい この身体の境界線の外の空間は、私ではないのか? そんなことでもあるまい 内も外も含めて、私だ 私とは、結局のところ宇宙ではないのか その体験を無私と言うのである