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shuran_calligra
無私の私 自他の境界
『老子』7章は、「非以其無私耶、故能成其私」という句で終わっている。直訳すれば、「私が無いから、私が成り立つ」となるが、これでは難解だ。『老子全訳』では「私欲が無いから、自己が確立する」としたが、訳文の簡潔さと引き換えに、説明が不十分になってしまったと感じる。
そこでここでは、もう少し深く考え直したい。おそらくそれは、自他の境界があることだと思う。もし、他人の何かを得ることを望むならば、得れば得るほど自分は他人になってしまう。つまり、自分の利益を求めることが、自己を崩壊させるという逆説が成り立つ。
52章が言う、目と口を閉ざし自己の内面に向き合うことは、自他の分別を付けるためのものではないか。それは瞑想のような具体的行為というより、2章の価値観を絶対視しないなどの心がけだと思う。その結果こそが、真の自己ということなのだろう。
ところでこれは、『論語』子路篇の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と同じことではないだろうか。また、『列子』楊朱篇の思想にも通じる。楊朱は人が名誉や地位を得るために、運命を他人に委ねてしまうことを指摘している。