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先憂後楽とは

今日のおすすめの一冊は、鍵山秀三郎市の『困難にも感謝する』(PHP)です。その中から「過去は変えられる」という題でブログを書きました。

本書の中に「先憂後楽とは」という心に響く文章がありました。

最近、私がとくに憂慮していることは、「個(私)」だけが肥大化し、「衆(公)」がないがしろにされている社会の風潮です。

一例として、電車内でのマナーがあります。一見して健康体の人が、われ先に座席を奪い合う光景。また、混雑しているにもかかわらず、人込みをかけ分けて先行く人の姿。いずれも見るに堪えません。

少なくとも、かつての日本人はそんな「個」を限りなく小さくして、人への迷惑を気遣ってきました。反対に、周囲へ配慮して「衆」を大きく育てるような生き方を普通にしていました。ところが昨今、そんな「日本人の美徳」が影を潜め、「個」だけが肥大化しています。

もともと小さかった「個」が大きくなると、「個」と「個」がぶつかり合って衝突の原因になります。昨今の風潮は、まさにこの状態が現象として顕在化しているのではないかと思います。その原因はひとえに、楽しみを先取りする価値観が横行しているからです。

その点、かつての日本人は、楽しみを先へ先へと先送りする生きる知恵を身につけていたように思います。本来、楽しみと苦しみを同時に味わうことはできません。楽しみを先取りすることは、苦しみを先送りすることにほかなりません。その分、「衆」をないがしろにする風潮が蔓延してきた。この憂慮が、私一人の杞憂(きゆう)に終わればいのですが…。

「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という、中国の「岳陽楼記」の中にある言葉がある。人々より先に天下国家のことを心配し、人々が楽しんだ後で自分が楽しむ、という政治を行うものに対する心構えを説いたものだ。また、先に苦労をしておけば、後々、楽しむことができる意味でもある。東京と岡山にある庭園「後楽園」の語源。

人々を先に楽しませ、自分の楽しみは後回しにするということができなければ、人の上に立つことはできない。そこには、「無私」という私心がないことが必要だ。俺が俺が、という「我(エゴ)」が出てしまうような「利己心の強い人」は無私の心にはなれない。

私心を去ることができれば、公を大事にすることができる。私心を去り、先憂後楽の気持ちで生きてゆきたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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