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見つめること 眺めること
道端の無法図に咲く小菊を信号待ちのあいだ運転席からよく眺めています。
風の日も雨の日も、踏み付けられたり刈り取られたり。でも咲いています。
小菊と私は何が違うのだろう。なぜ私は私になって小菊にならなかったのだろう。人も車もいない交差点で偶然に居合わせた小菊と私との間柄をしばし考えます。
花は風に揺れ、雨に濡れ、ただそこに咲いている。
私もまた不運にあい、悲哀にふれ、それでも今こうしてここにいる。
花はその場に根を下ろし茎を伸ばし花を咲かせそして散る。
私もこのほしの生命体としてこの地で育まれ育んでやがて死ぬ。
ただそれだけ。私と花のあいだにどんな違いがあるというのか。
「見つめる」とは見ることを「詰める」こと。一点凝視するとき、目の焦点を絞るからまわりのものは見えなくなる。「眺める」は、ぼんやりだから全体がなんとはなしでも目に映る。
あるモノを見つめるとき、自ずと「それ」と「それ以外」とに分けてしまう。眺めているとき、目に映るものは世界に等しく存在するものであり、「それら」は「同じく在る」という点においてつながりを有している。
「眺める」のなかに自分自身を溶け込ませます。すると「小菊は私であり、私は小菊である」こんな風にもなんだか感じられてしまいます。
見つめること、眺めること。どちらも同じく大切です。だけど眺めることの本意が最近になってようやっとわかりはじめたような気がしています。
見つめること、眺めること。通勤経路にひろがる冬枯れの景色を眺めながら私は今日もくねくねと車を走らせています。