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利他性と自己犠牲の彼方へ
このところ「利他性と自己犠牲」との関係について考えを巡らせている。世にいう「利他性」とはどのようなものを指すのであろうか。
ネットで調べると、自分の利益よりも他人の利益を優先すること、具体行動として寄付やボランティアなどと書いてあった。また自分を犠牲にしてまで他人のために尽くすことは「愚か者のお人好しの行為」とまでタイトルに載せているネット記事もあった。なかなかに扇情的な言い回しである。
寄付やボランティアなど自分の財産、時間、労力を他者へ無償で与える行為というのは利他性を示す行為として一般的に高々と掲げられている。(災害地域でのボランティア活動、日本ユニセフの遺産寄贈プログラムしかり) しかし、正直、私にはそれらがわずかな戸惑いとして感じる。もちろん利他性の捉え方はとても主観的なものであり、各々の経験や価値観によって形成されるものなので正解、不正解は無い。誰それ比べることなくそれぞれの心の中に宿る利他性を育み続けること、ただそれに尽きるのだと思う。
いや、もう少し話を膨らまさなくては。なので、以下はあくまで私自身の個人的な戸惑いからくる「つぶやき」いや完全なる「妄想」。そう思っていただければ有難い。このような視点でもう少し考えを深めてみる。
私は内向きな人間で内面を重視する価値観を有するため、金銭やモノ(宝飾品、各種コレクション、高級グルメ)に対する執着はあまり無い。また、時空についても思考や感覚の取り扱い次第で伸び縮みをさせたり、質量を変容させられると根拠もなく認識しているキライがあるので性格はせっかちではあるけれど効率、合理性至上主義でも無い。更に各種労力においても都合よく意味づけ出来る特技があるので他人の世話をしたとて回復力はそこそこ早い。よって損得感情や他者と比較する感情があんまり湧いてこない。このような理由から寄付やボランティアが私には利他的行為、価値ある行為としてどうもピンと来ないのである。
また「自己犠牲」に関して言えば、誰かを手助けするためには自分自身が健全で安定したコンディションでなければ真の意味で手助けすることが出来ないこともよくわかっている。心身のバランスを崩してまで誰かのために尽くす行為は結果的に相手の尊厳を冒す行為にあたるように感じてしまう。過去の経験の学習からそのような行為に対し非常に抑制的な自分がいる。従って、私にとっては仕事における職域、職務という枠組みの範疇で他者貢献、社会貢献をすることが、世のため、人のため、かつ自分の満足を満たすうえでも丁度良い塩梅なのだと結論づけている。
だがしかし、私の「利他性」がときに「自己犠牲を伴う利他性」という問題を私へ執拗に問い質し、砂漠の中の一神のように強烈にその概念を押し付けてくることがある。私はその苦悶からとても逃れられない。このように記しても大変にわかりづらいため「たとえ話」を以下に示してみる。
例えば「利他性」には上述した「ソフトな利他」から次の例えのような「ハードな利他」まで幅広いグラデーションがある気がする。
ある事象の責任(罪)を当事者に代わって誰かが引き受ける。本来は当事者自身が責めを負うことが妥当である。至らぬ点や損害を及ぼした相手の心情に思いを馳せ、悔い改めて謝罪をし、当事者はそれを学びに変えたり、その責任の意味を問い続けて生きてゆく。罪を冒したときは一般的にそのような姿勢、態度が求められるところであろう。
だがそれがあまりにシリアスな事象で当事者の心的キャパで引き受けるには大きすぎたり、事象の対応にあたり当事者に任せていては到底、相手側の納得を得ることが出来ず余計に問題をこじらせることが明白な場合、そのときはより経験豊富で対応能力に長けている者が対処するより他ないであろう。
結局のところ、トラブルが発生したとき、当事者が責任をもって対応にあたることが正論、理想であるが、現実問題としてなかなかそれは難しかったりするものだ。世間を長らく泳いでいると物事が理(ことわり)とおりに進まないことのほうがはるかに多いことが見えてくる。悲しいかな、世間とはそうゆうものなのだ。
そんなとき、それを担える誰かが代わって引き受けざるを得なくなる。引き受けるということは、当事者に代わりその責任を被って相手と対峙するということである。針の筵に座り、首を垂れ、一心に相手の話に耳を傾け、ときに何等かの形をとって贖わなければならないのだ。金銭や労力だけの話ではない。激しい葛藤に身を置くことで心身のエネルギーは著しく摩耗、減殺することになる。
「そうだ、もしかするとこんな幻影を視ることになるかもしれない。」
そこは熱気と歓声に包まれた闘牛場。雄々しくその中心に立つ闘牛士とは責任を被るその「誰か」だ。彼は周囲のオーディエンスからすでに伝説の英雄と称され、猛々しい牡牛と今まさに生死を決する対決に臨まんとする。四方を囲む板塀の外側には、寄りにもよって事象の当事者本人が手を合わせ彼を見守っているではないか。そしてある者は彼の腕前をまるで品定めするが如く好奇な目つきで眺め、また別の者は手元のスマホのコンテンツに夢中ですっかり上の空である。
こんな無責任で理不尽な状況に置かれても彼が闘牛場から立ち去ることは無い。他人の代わりに自分が手負いになるやもしれない、命を失うこともあるやもしれない。内心では、何故に自分が、何のために、そのような疑問と怒りと恐怖で今にも身がちぎれそうなのに。
だが、それでも彼は運命を受け入れる。彼の愛するささやかだが美しい世界を守るために。
こんなことを想像すると、果たして身を切る自己犠牲の無い利他など真の利他などと言えるのか、など極端なところまで思いを馳せずにはいられなくなる。抗えぬ葛藤から自分を救い出すにはどうすればよいのだろう。この世に神や仏がいるのなら彼に一体どうせよと思し召すおつもりなのか。
深夜、不意に目覚めた変性意識のなか、私は無法図に伸びきった名もなき1本の茎であった。実も花も付かない色の褪せた筋張った茎。すると、その内部に在る私はじりじりと横にスライドして元の私から平行にずれてゆく。乱視にありがちな目に映る全てが二重に見えるようなあの感じ。ずれたまんま、元の私にもう戻ることは出来ない。
「無私」 そうだ。自分を捨てる。 自己犠牲を伴う利他の先には「無私」という救いの道が私には見える。
「無私」へ至る過程を間近に見る思いがした。こうして人は生き抜くために幾度となく精神の脱皮を繰り返してゆくのだ。