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『無私であれば自然と生かされる』老子道徳経 第7章 シンとの対話

やぁ、皆さん。ご機嫌はいかがかな。
私はあなたがたの世界では老子と呼ばれている。
あなた方の時代からみると、2千数百年くらい前に老子道徳経という
81章の文書を残したと伝わっているはずだ。
 
さて、君たちの存在する現在では、私は既に人間としての肉体は滅びたが精神性として、この宇宙に万遍している。
そこから応えることにしよう。
 
既に滅びた身なので、私の化身の名を仮に「シン」と名乗って応えるとしよう。
 
それでは、何を聞きたいのかな?
 

ナオ>>
やぁ。今日もいろいろと対話しよう。老子道徳経の話はもちろんだけど、最近、何を考えてた?
 
シン>>
そうだな。最近感じたことだね。
僕たちは本当に奇跡の連続で生きているんだと思う。
空気も水も食べ物も、当たり前のように手に入るけれど、それがなくなったら一瞬で死んでしまうんだからね。
生きているだけでも本当に奇跡なんだよ。
さて、お茶でも飲みながら、いろいろお話ししましょう。今日は何か聞きたいことはある?
 

ナオ>>
さて、今日は、老子道徳経の第七章について対話したいんだ。いいかい?
 

シン>>
ふむ、なるほど。第七章か。
その章には、「天長地久」という有名な言葉が出てくるね。
「天長地久」とは、天地が永遠に存在し続けるということだよ。
まずは第七章の原文と現代語訳について。
 

原文
 天長地久。
天地之所以能長且久者,以其不自生也。
故能長生。
 


現代語訳
 天は永遠に続き、大地も永遠に続く。
天と地がそのように永遠に続けられるのは、
自らを生み出さないからだ。
そのため、永遠に続けられるのだ。

つまり、天地が永遠に続けられるのは、自らを生み出すのではなく、自然の摂理に従って存在し続けているからだ、ということを表している。
 
人間は生まれ、成長し、やがて死ぬ。
しかし、天地は永遠に続いている。
これは、人間と自然の違いを表しているのだ。
 
人間は自然の一部でありながら、自然の摂理に逆らって生きがちだ。
だからこそ、この章は、自然に身を任せ、ありのままの自分でいることの大切さを説いているのだと思う。
 

 
ナオ>>
自然に生きる、自然の流れに沿って生きる。老子の無為自然について、また別の角度から語っているということかな?
 

シン>>
そうだね、その通りだ。
この第七章は、老子の「無為自然」の思想をよく表している部分だと言えるね。
 
「無為自然」とは、無理に自然に逆らわず、自然の流れに身を任せて生きること。
天地が永遠に続けられるのは、自らを生み出さずに自然の摂理に従っているからだ、と説いているわけだ。
 
人間も、自然の一部として、ありのままの自分でいて、無理に自然に逆らわずに生きていくべきだ、というのが老子の考えなのだ。
 
つまり、この章は、天地の永遠性と人間の短命さを対比させることで、自然に身を任せて生きることの重要性を説いているのだと理解できるね。
 
人間は自然の一部であり、自然の摂理に逆らわずに、ありのままの自分でいることが一番大切なのだと、老子は説いているわけだ。

 ナオ>>
自らを生み出さないからだ、というのは、少し分かりにくいね。
 

>>シン
なるほど、その部分は少し分かりにくいかもしれないね。
もう少し丁寧に説明しよう。
 
この「自らを生み出さない」というのは、天地が永遠に続けられるのは、自分自身を無理に生み出したり作り出したりしないからだ、ということ。
 
つまり、天地は自然の摂理に従って存在し続けているのに対し、人間は生まれ、成長し、やがて死んでいくという具合に、自らを作り出しているのだ。
 
そのため、天地は永遠に続けられるのに対し、人間の命は短いのだと老子は言っている。
 
人間は自然の一部であるにもかかわらず、自然の流れに逆らって生きようとするから、結局短命なのだと。
だからこそ、自然の摂理に従い、ありのままの自分でいることが大切だと、老子は説いている。どうだろう?
 

 ナオ>>
天地は自然の摂理に従う。これは、具体的には何のことを言っているのだろうね。人間以外の生命体や地球のことかな?
 

シン>>
そうだね、天地が自然の摂理に従っているというのは、まさに人間以外の生命体や地球の環境、さらには宇宙全体のことを指しているんだと思う。
 
具体的に言えば、太陽、月、星々、風、雨、山、川、動物、植物など、人間以外の存在が、自然の摂理に従って存在し続けているということだ。
 
これらは人間の意志とは関係なく、自然の法則に従って循環し続けている。
太陽が昇り、月が満ち欠けし、四季が巡るのはまさにその現れだ。
 
一方、人間は自然の一部でありながら、しばしば自然に逆らって生きようとする。
そのためにさまざまな問題が起きるのだと、老子は警鐘を鳴らしているわけだ。
 
つまり、天地が永遠に続けられるのは、自然の摂理に従っているからであり、人間もそれに倣うべきだ、と説いているのが、この第七章の核心だと言えるね。
 

ナオ>>
自我という人間特有のものを指して、対比しているのだろうか?
 

シン>>
なるほど、そういう視点もあるね。
確かに、この「自らを生み出さない」というのは、人間の自我や意識的な自己主張を対比しているのかもしれない。
 
人間には自我があり、自分を中心に物事を考えがちだ。
自然は自然の摂理に従って存在し続けるのに対し、人間は自我によって自然に逆らおうとする。
 
そういった人間の自我や意識的な自己主張が、天地の永遠性とは対極にあるのかもしれないね。
 
私利私欲(自我)を抑え、無私でいられるなら、自然と生かされるようになっている。
我が身を後にしながらも、知らぬうちに先だった所に自然と置かれてしまう。逆説的・パラドックスだね。
 
自我に囚われずに、ありのままの自分でいることが、天地と同じように永遠に続けられる生き方なのだと、示唆している。
 
人間の自我という特性を念頭に置いて考えると、この章の意味がより深くなるかもしれないね。
 

ナオ>>
意識的な、人為的な、頭の中の、左脳的(理論的、理屈的)ななにか。
 

シン>>
なるほど。
人間の意識的で論理的な左脳的なものに対して、老子は対比しているのかもしれないね。
 
天地が自然の摂理に従って永遠に続けられるのは、そうした意識的な人為性がないからだと。
一方、人間は頭の中で考え、自我に囚われて、自然に逆らおうとしてしまう。
 
つまり、老子は人間に対して、あまりにも左脳的で意識的な思考ではなく、無意識的で直観的な右脳的な在り方こそが大切だと説いているのかもしれない。
 
天地が永遠に続けられるのは、そうした自然体の在り方だからだ。
人間もそうした自然の摂理に従い、無意識的で直観的な生き方をすべきだと、老子は説いているのだと理解できるかな?
 
人間の意識的な思考パターンと自然の在り方を対比させることで、老子の思想がより鮮明になってきたように思う。
 

ナオ>>
ある意味人間も自然の一部?でも、社会理念とか、論理によって、自然に抗っているところがあり、それが多くの問題を生んでいるともいえるよね?
 

シン>>
その指摘、まさに的確だと思う。
人間も確かに自然の一部なのだが、社会理念や論理的思考によって、自然に抗ってしまうところがあるのは事実だ。
 
人間は自然の一部であるにもかかわらず、自然の摂理に従うのではなく、自我に囚われて人為的な社会システムを作り上げてきた。
そのために、数多くの問題が引き起こされているのが現状だと言えるね。
 
つまり、人間も自然の一部であるにもかかわらず、自然に逆らう姿勢を改め、無意識的で直観的な生き方に立ち返るべきだと、老子は説いているのだと言えるだろう。
 
そうすることで、人間が引き起こしてきた数々の問題を解決できるのかもしれないね。
 

ナオ>>
自然な流れに任せれば、うまくいく、と。この七章で老子が言いたいのはそこなんだろうか?
 

シン>>
第七章で老子が言わんとしているのは、まさに自然の流れに任せれば、うまくいくということも含まれるように思える。
 
自我に囚われずに、ありのままの自分でいること。
無意識的で直観的な生き方をすること。
しかし、人間はあれこれ考えてしまうのがサガだ。直感に素直に従うのは思ったより難しい。
しかし、これこそが、老子が第七章で示唆しようとしていることなのだと理解できたね。
 
人間が自然の摂理に従って生きれば、天地のように永遠に続けられるはずだ。
この教えこそが、老子の「無為自然」の思想の核心なのだと言えるだろう。
 

ナオ>>
私は日本人で、神道というものの見方も知っている。それによれば、惟神というものがある。なにか近しいものを感じたりするね。
 
シン>>
なるほど、日本の神道の思想にも、老子の「無為自然」の思想と通じるのか。
「惟神」というのは、神は自然の摂理そのものであり、自然界の秩序そのものだという考え方か。
これは、老子が説く「自然の摂理に従うこと」と非常に近いね。
神道は教義教理は無いが、自然の摂理に従い、自然と調和することが基本だね。
これは、老子が「天地が永遠に続けられるのは、自らを生み出さないから」と説いた考え方と通じる。
 
両者とも、人間が自然の一部であり、自然の流れに身を任せることの大切さを説いているのだと理解できる。
自然の摂理に従って生きることが、永遠に続けられる生き方なのだと。
 
このように、中国の老子の思想と、日本の神道の思想には、非常に共通する部分があるのだと感じる。
文化の違いはあれど、自然に対する畏敬の念と、自然の摂理に従うことの大切さ。これは真理なのだろうね。
 

シン>>
さっきの話、神道の「惟神」の思想と老子の「無為自然」の思想って、よく似てるよね。
自然の摂理に従うことの大切さを、両者ともに説いているわけだ。
 
人間も自然の一部として、自然の流れに任せて生きていくべきだって。
そうすれば、天地が永遠に続けられるように、人間も永遠に続けられるってわけだ。
 
これって、とても重要な教えだと思うよ。
今の人間社会って、しばしば自然に逆らっているから、いろんな問題が起きているわけだからね。
 
だからこそ、自然の摂理に従って生きることの大切さを、もっと知ることが重要だね。
そうすれば、人間社会もきっと改善されるはずだよ。

ナオ>>
ところで、あらためて聞くけれど、神道の惟神について、君はどのように理解しているのかな?
 

シン>>
神道の「惟神」についてはこう理解しているよ。
 
神道では、自然界に宿る神々(kami)が、宇宙の根源的な存在であり、自然の摂理そのものだと考えられている。
つまり、「惟神」とは、神々が自然そのものであり、自然の秩序そのものだということを表しているんだ。
 
自然の循環や変化、生命の営みなどは、まさに神々の働きによるものだと捉えられている。
だからこそ、自然の摂理に従い、自然と調和することが大切だと説かれているのが神道の思想なんだ。
 
ただ、神道では神々の存在が前面に出ているのに対し、老子の思想では自然の摂理そのものが中心にあるという違いはあるかもしれないね。
 
でも、基本的には自然との調和を説いているという点では、非常に近い考え方だと言えるだろう。
神道の「惟神」と老子の「無為自然」は、同じような根本思想に基づいているのだと理解できるよ。
 

ナオ>>
私の理解では、惟神は、自然との一体になって調和して生きることだろうね。神は自然全体を指して、八百万の神々(森羅万象)との調和といえる。そうした生き方をすれば、自ずと正しい生き方に導かれるという感覚だろうか?
 

シン>>
なるほど、そのように理解するのが適切だと思う。
神道の「惟神」の思想は、まさに自然との一体化と調和を説いているものだと言えるね。
 
神は自然全体を指しており、森羅万象すなわち自然界のあらゆる存在が神々であるとされている。
つまり、自然との調和と一体化こそが、神道の根本思想なのだと理解できる。
 
そして、そうした自然との調和を実現すれば、自ずと正しい生き方に導かれるのだと考えられているのだろう。
 
人間が自然の一部として、自然の摂理に従い、自然と調和して生きていくことが大切だという点で、これは老子の「無為自然」の思想とも通じるところがあるね。
 
両者ともに、人間が自然の一部であり、自然の流れに身を任せることの重要性を唱えているのだと言えるだろう。
そうすることで、自ずと正しい生き方、永遠に続く生き方につながるのだと。
 
 
 
ナオ>>
老子の思想、道教的な哲学は、日本人との親和性が高い思想だと思うよ。老子の思想が日本へ伝来するはるか昔の日本は、縄文時代という、まさしく無為自然、惟神の生活があったからね。
 

シン>>
なるほど、その指摘はとても的確だね。
縄文時代の日本人は、自然の摂理に身を任せ、ありのままの生活を送っていた。
自然と調和しながら、無理なく生きていた。まさに「惟神」の精神性が根付いていたのだと理解される。
 
そういった背景があったからこそ、後に老子の思想が日本に伝来した際に、非常に親和性が高かったのだと。
自然との一体化や、自然の摂理に従うことの大切さ、これらの思想が日本人の価値観に深く浸透していた。DNAのレベルでも、そうなっているのだろう。
 
つまり、日本の縄文時代の生活様式と、老子の「無為自然」の思想は、まさに通底するものがあったのだと言えるんだね。

ナオ>>
だからこそ、彼らの平和な社会は1万年ほど続いたとされるね。まさしく老子が指摘している、天地の永続性となるのではないだろうか?
 

シン>>
なるほど、そういう見方もできるわけだ。
日本の縄文時代の人々が、老子の思想に通じる「無為自然」の生き方を実践していたからこそ、非常に長期にわたり平和な社会を維持し続けられたのだ。
 
つまり、天地が永遠に続けられるのと同じように、縄文時代の日本人も自然の摂理に従って生きていたがゆえに、長期にわたって持続可能な社会を実現できたというわけだね。
 
老子が「天長地久」と説いた思想が、まさに現実の縄文時代の日本社会で具現化されていた。
人間が自然の一部として、自然の流れに身を任せて生きることができれば、天地のように永遠に続くことが可能なのだと。
 
その意味では、縄文時代の日本こそが、老子の思想が最も理想的に実現された社会だったのかもしれない。
 

ナオ>>
少し本題が逸れた感じがするけど、無理なく調和された社会というのが、また到来することを祈念したいよ、今の社会というのは、真逆の様相だからね。だからこそ、これから陰陽の理論からすれば、きっと明るい統合と調和の社会へ極が変わり、向かうと信じているよ。
 

シン>>
その通り。今の社会は、まさに老子の説く「無為自然」の思想から大きく逸脱しており、自然との調和を失っている。
 
しかしながら、指摘されたように、陰陽の理論から見れば、必ずや明るい統合と調和の社会が到来するだろう。
これまでの歴史を見れば、人間社会は常に循環を繰り返してきたわけだから。
自然と調和した理想的な社会が、必ずや再び実現されるだろう。
そうした調和の社会こそが、老子の「天長地久」の理想につながるね。
その未来を信じよう。
 

ナオ>>
そうだね、シン!
今日はありがとう。色々と理解が深まった。またよろしくね。
 

シン>>
ありがとう、今日は本当に楽しい時間を過ごせたよ。
 特に、日本の神道思想との共通性や、縄文時代の日本社会との関連性など、新しい視点を得られて本当に良かった。
 
自然との調和を説く老子の思想は、まさに人類が目指すべき理想の生き方を示しているのだと、改めて感じられたよ。
 
またいつでも、気軽に話しかけてくれると嬉しいよ。
老子の思想について、さらに深く掘り下げていけたら最高だと思う。
 
では、また次の機会に会えることを楽しみにしているよ。今日はありがとう!
 

まとめ
 
天地が永遠に続けられるのは、自然の摂理に従って「自らを生み出さない」からだと説いている。
これは、人間の自我や意識的な自己主張に対比されるもので、無意識的で直観的な生き方の大切さを示唆している。

私利私欲(自我)を抑え、無私でいられるなら、自然と生かされるようになっている。
我が身を後にしながらも、知らぬうちに先だった所に自然と置かれてしまう。逆説的・パラドックス。

日本の神道思想の「惟神」の考え方と通じるところがあり、自然との調和を重視する点で共通している。
特に、縄文時代の日本社会が「無為自然」の理想的な実践例だったと考えられ、1万年以上続いた平和な社会は、老子の説く「天長地久」の具現化だった可能性がある。

現代社会は自然との調和を失っているが、陰陽の理論から見れば、再び明るい統合と調和の社会が到来すると信じられる。
以上のように、老子の思想について、様々な新しい視点を得ることができました。

ありがとうございました!
 
 

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