ピーナッツ/天理教的なことを語るnote

表現したい思いがたくさんある。 時にはそれが“信仰”という枠からはみ出るようなことであったとしても。 揺さぶられた感情に、震える心、そのもっと奥の魂から湧き上がる声に、ただただ言葉を与えたい。

ピーナッツ/天理教的なことを語るnote

表現したい思いがたくさんある。 時にはそれが“信仰”という枠からはみ出るようなことであったとしても。 揺さぶられた感情に、震える心、そのもっと奥の魂から湧き上がる声に、ただただ言葉を与えたい。

最近の記事

84.多数決なんかじゃあ決まらない-天理教的な代表者の選び方、組織運営の要点-

このところ、世の中は何かと選挙にまつわる話題に事欠かない。 ある選挙立候補者が、有権者から多数の指示を集めて選挙で選ばれた筈なのに、「なにも考えてもいない、わかっていない若い連中がエライことしてくれた」と誰かが選挙結果に轟々の批判を走らせている。かと思えば、「テレビばかりしか見ない年寄りが事の真相も知らずに勝手なことをのたまっている」とまた違う誰かが反論もし、正直、傍から見ていても果たして一体何が真相なのかわからない、そんな錯綜した状況の中で意見の分断が静かにネット内外で発

    • 83.“いまこの瞬間の幸せ”と“幸せが続いていく”ということ

      “幸せってなんだろう?” これはピーナッツにとって終わることのない追い求め続けているテーマのひとつであるように感じています。 今回も私の中を駆け巡ったものに言葉を与え、表現したいと思いnoteにまとめています。 過去にも類似テーマを度々投稿してきました。未読の方はよろしかったらそちらもどうぞ。 ↓ “点としての幸せ”-断片的な最高の瞬間- さて、この頃ピーナッツは“幸せ”と私達が捉えていることには、大きく分けて2つのパターンがあるように感じるようになりました。 ひと

      • 82.信仰者はどう変わっていけばいい?

        布教活動していると、非信者の方と話をする機会の中でこんなことを訊ねられたこと、ないでしょうか? 「信じたら何が変わるの?」 私はよくそんな風に問いかけられていたような気がします。 もし皆さんならそんな時、どう答えるでしょうか? 教えに基づき、教科書に照らし合わせた思案や答えを求めた方がいいのかもしれませんが、本当のところ、ピーナッツはそういうことをnoteでしたいわけではありません。どちらかというと個人的な悟りや閃きを中心に何かを考え、言葉にしたい人間です。 そういう

        • 81.おさづけってどうやったら効くの?

          ご無沙汰しております。 ピーナッツです。 しばらく行事という行事が重なり、研修会という研修会が重なり、note投稿から気持ちが遠のいておりました。 そしてようやく帰ってきました。 しかし、一度noteを編集・投稿するというサイクルから離れると、再び元のテンションには戻りにくいもので、先月末から「いつ復活しよう…」と考えあぐねておりました。いつまでもPCを開いてキーボードを打ち込まないでいると、このままあっという間に年末が来ちゃいそうな気がしましたので、ちょっと頑張って再

          80.修養科物語(6・終)-救いとは-

          修養科生時代のエピソードを書き綴っています。 前回未読の方は先にこちらを↓ ※サムネ画像提供:@papa_okada(何度も使わせていただき、ありがとうございました‼) 事件が起こったのは、いよいよ修了迫る三か月目の終盤だった。 志願当初、脳卒中の後遺症で車椅子生活だったIさんは、日に日に身体は元気を取り戻し、最後は毎朝歩いて修養科棟までやって来ていた。車椅子は詰所に置いて、もうそれに乗ることもないだろうというくらい回復していた。 その彼が、深夜ひとりでトイレに立った

          80.修養科物語(6・終)-救いとは-

          79.修養科物語(5)-たすける理で生まれ変わる-

          修養科生時代のエピソードを書き綴っています。 前回未読の方は先にこちらを↓ ※サムネ画像提供:@papa_okada Tさんのおさづけ取り次ぎも回数を重ね、50回を数えた頃になると、ようやく慣れて来たようで、次第に私の仲介がなくても毎日おさづけさせてもらっている常連の方になら彼自らひとりで話しかけ、おさづけが出来るようになっていった。 そうやっておさづけを取り次いでまわるようになってから、日に日に彼が変わっていくのが、はたから見ても明らかだった。 出会った頃は他人とろく

          79.修養科物語(5)-たすける理で生まれ変わる-

          78.修養科物語(4)-徳積みに寄り添う-

          修養科生時代のエピソードを書き綴っています。 前回未読の方は先にこちらを↓ Aさんとの一件があって以来、おさづけの取り次ぎ回数を積み重ねて歩く日々に、何か、急に違和感を覚えるようになっていた。取り次ぎ回数はちょうど100回を超えた辺りでの意識の変化だ。 本当にこれでいいのだろうか? このままひとりでがむしゃらにおさづけを取り次いでまわるその先に、果たして自分が納得するものが得られるのだろうか? そんな時、就寝前に詰所の部屋で読んでいた深谷忠政先生の著書のある一文に触れ、

          78.修養科物語(4)-徳積みに寄り添う-

          77.修養科物語(3)-あなたはニセモノ-

          修養科生時代のエピソードを書き綴っています。 前回未読の方は先にこちらを↓ 修養科生活が始まって間もない頃、私は周囲の身上を持たれている方に対し、片っ端からおさづけを取り次いでまわっていた。 以前、大学時代のある先輩が修養科での3か月間で300人の方におさづけを取り次いでまわったというエピソードを聞かせてもらったことが頭の片隅に残っていた。 私も同じ目標を掲げて毎日それを頑張ろうと思い立ち、授業の合間の休み時間や昼の休憩時間を利用し、修養科棟吹き抜けで目に留まった人に話し

          77.修養科物語(3)-あなたはニセモノ-

          76.修養科物語(2)-世襲・閉鎖・封建体質の副産物-

          修養科生時代のエピソードを書き綴っています。 前回未読の方は先にこちらを↓ 私とYさんと間で交わされる奇想天外な遣り取りは修養科期間ずっと続くことになるだが、ここを詳細に描こうとすると本筋からはずれてしまい、全体的なバランスを崩してしまう為、おおよそのことをまとめてみようと思う。 先ず、Yさんの素性だ。 彼は表向きはある会社の経営者だった。(もしかしたらその時点で既に元経営者だったかもしれない。病気により、身体が不自由になっていた為) それはあくまでも表の顔で、もう一つ

          76.修養科物語(2)-世襲・閉鎖・封建体質の副産物-

          75.修養科物語(1)-イエスを殺した連中-

          ある日の夜、妻と自室でくつろぎながらテレビを観ていた時のことだった。 うつ病を患った若い一人の女性の日常を追ったドキュメント番組が放送されていた。その番組の中で「うつとは本来、年配者が罹りやすい病気だった」といった旨のナレーションが流れ、「えっ、そうなの?」と隣に座っている妻に訊ねる。 「わかんないけど、そういうイメージがあったらしいね。だから認知症と間違われることがあったって話はどこかで聞いたことがあるよ」 「へぇ、そうなんだ」 「それに、私も病院に通っていた頃に“あなた

          75.修養科物語(1)-イエスを殺した連中-

          74.教話雑感(6)-貴族教権化への痛烈な警告-

          ◆教話「土民性を失うな」 雑感 撫養大教会の礎を築いた先人・土佐卯之助。漁師だった 24才の時に心臓脚気を患い、医者から見離されたものの、天理教の話を聞き、鮮やかな御守護をいただいた。 その後お礼参りのためおぢばに帰った時の様子が、次の様に説明されている。 当時のお屋敷の風景と、山沢先生の取次話にはお道の信仰者や、また教会の在るべき姿が簡潔にあらわされているように感じた。 天理教が巨大化、組織化していった過程の中で失われつつある大切なことだ。この泥臭さこそが天理教独自の

          74.教話雑感(6)-貴族教権化への痛烈な警告-

          73.神様は、忘れた頃に、突然に…。

          ある日のこと、突然背中の左側に激しい痛みが走った。 最初はただなんとなく痛みを感じる程度だったのに、時間とともにその度合いが増し、夜になる頃にはほんのちょっと笑ったり、咳をしただけでも声をあげて悶え苦しむような耐えられない痛みへと変わっていた。 背中の痛みは内臓からの悲鳴だとか、そんなことも聞いたことがあったので、内心は穏やかではない。否応なく不安が募る。 しばらく様子を見ていつまでも症状が治まらないようなら、早めに病院に行って診てもらおうかと考えをよぎらせていた。 と

          73.神様は、忘れた頃に、突然に…。

          72.信者ではなくシンパを増やす

          “世の中をより良くしていこう”という目的に向かって積極的な宗教ほど、自分達の所属する教団の教勢が膨らみ、伸び広がっていくことこそが、何よりもそこに到達していく一番の近道なのだと、確信している傾向が見られる。普通に考えたら当然のことかもしれない。 暗がりから抜け出せず、困っている人、迷い苦しむ誰かに手を差し伸べたり、明るみに向かって導いているうちはまだいい。 その気持ちが他宗教と向き合った時、皮肉にも、その信仰心の強固さに比例して、相手の価値観を尊重できず受け入れられなかっ

          72.信者ではなくシンパを増やす

          71.教話雑感(5)-理想の配偶者とは-

          ◆教話「『…これは末代しかと治まる』の神意」 雑感 果たして「理想の結婚相手」というものは存在するのだろうか。 より好条件を求めて生涯の伴侶を選んでいるつもりでも、縁のある人としか結ばれないのだから、自ずとめぐり合う相手は 100%縁の深い魂の人しかやって来ない筈である。 一生懸命吟味して選んだ配偶者なのに、いざ一緒になってみると相容れない、看過できない不満を感じる点が多々あることに次第に気がついてくる。しかしそれらは、あくまでも自分の魂のレベルを映し出す鏡であるから

          71.教話雑感(5)-理想の配偶者とは-

          70.教話雑感(4)-割に合わない無駄働き-

          ◆教話「“あまり”の道を求めて」 雑感 お道を通っていると、本当に割に合わないことばかりだと感じることがある。その中でも布教活動は「割に合わない」最たるもので、生活に必要な収入に繋がることはそれほど多くもないし(最初の頃なんてほぼない)、社会的信用の薄い行為だとつくづく実感している。 「一軒 一軒訪ねて回るよりももっと効率の良いやり方があるんじゃないの?」と誰かからご指摘いただくこともしばしば。 それでもめげずに続けていっても、結果、信仰が伝わるまで行くことはほとんどない

          70.教話雑感(4)-割に合わない無駄働き-

          69.本日の雑念(7)-布教は強調してすることなのか-

          9月。 例年の「教会長路傍講演の日」に始まる月末の布教活動強調の集まりと同時に、「全教会布教推進月間」なる動きも発表されており、あちこちから「今月は布教に力を入れよう」という雰囲気が漂っている感じがしている。 私は、20代から30半ばにかけては戸別訪問以外ほとんど何もしないという狂気的な日々を送っていたし、教祖130年祭当時は、「こういうことは本当にこれで最後にしよう」と割り切るつもりで、徹底して数の積み上げにこだわって実働していた。 にをいがけ件数も、おさづけのお取り次

          69.本日の雑念(7)-布教は強調してすることなのか-