慶長8年(1603)7月28日は徳川秀忠の長女千姫が豊臣秀頼に嫁いだ日。秀頼11歳、千姫7歳で2人の母の淀殿と江は姉妹。この年の2月に征夷大将軍になった家康ではあるが豊臣恩顧大名への警戒を緩めることはできず秀吉の遺命に従った結婚。12年後大坂の陣で戦火に包まれ二人は別れを迎える。
慶長16年(1611)3月28日は家康が二条城で豊臣秀頼と会見した日。秀頼に加藤清正・浅野幸長が付き添い亡き秀吉の正妻高台院も臨席し無事終了した。会見の無事終了を畿内の庶民も喜んだとか。徳川への臣従を示すことになると会見反対派もいたようですが戦は回避。ただ、大坂の陣まであと3年。
慶長19年(1614)7月26日は方広寺の鐘銘について徳川からの抗議があった日。銘文「国家安康 君臣豊楽」は諱「家康」分断の呪詛で豊臣が君主で楽しむ意図ではと。こうして大坂の陣は徳川の言いがかりから始まったとされる。ただこの時代は諱の分断に見えるのは豊臣の脇が甘いという指摘も。
旧暦に31日は無い。慶長20年(1615)5月は現存最古の大坂の陣を記事とした瓦版がでたとされる。主に江戸時代に不定期で発行された印刷物で木版摺りが一般的だが粘土製の原版もありこれが名前の由来とか。「大坂安部之合戦図」と「大坂卯年図」が確認されており合戦の様子を図を使って伝えた。
慶長8年(1603)7月28日は徳川秀忠の長女千姫が豊臣秀頼に嫁いだ日。秀頼11歳、千姫7歳で2人の母の淀殿と江は姉妹。豊臣恩顧大名を警戒する家康が秀吉の遺命に従った結婚。豊臣が一大名という立場を承諾したら大坂の陣まで行ったのか。今の自分の立場を理解しているかですか。どうかなぁ。
一般的に言われる大坂の陣。冬と夏があります。大坂の夏の陣で真田幸村は戦死したことになっていますが、それは間違いなのです。真田幸村生存説は真実です。1615年の夏に大坂城での戦いを終えた真田幸村一行は、薩摩にいました。そして、台風が過ぎた冬に南海へと出航したのでした。