島原城

2024年に築城400年を迎えた島原城。天守内はキリシタン関連史料などが豊富展示された資料館。堀内の石垣は当時の面影を残し、天守入口では武将隊がお出迎え。夜間の活用も充実し、「島原城の城キャン」や「島原城夜の陣」なども人気。

島原城

2024年に築城400年を迎えた島原城。天守内はキリシタン関連史料などが豊富展示された資料館。堀内の石垣は当時の面影を残し、天守入口では武将隊がお出迎え。夜間の活用も充実し、「島原城の城キャン」や「島原城夜の陣」なども人気。

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島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -六-

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          島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -弍-

          海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之  -弐- 「豊後様」  新兵衛の声が、見送りに立った二見の民の声と重なって、重政は頭を振った。  大和から陸路を取って九州に至り、肥後長洲の津から船で対岸の肥前高来に渡れば、そこはすでに日野江藩の領地である。長々と輿に船にと揺られた重政の足元は、どうかすると覚束ず、波に揺らされつづけた頭も茫洋としてはっきりせず、大和の幻影がちらついた。 (これも、あの山のせいだな)  思いながら、目の前に立ち上がる山の尾根を見上げる。  海辺から急激に立

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          島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -壱-

          海道の城 〜松倉重政伝〜天津佳之  -壱- 「蒼いな」  つい声に出しながら、松倉重政は空を仰いだ。  南海の空の蒼さは目に沁みるほど深く、その見慣れなさに彼は瞼を細めた。  重政は、生まれも育ちも畿内の大和国である。そして、山に囲まれた大和の空は、いつも霞掛かったようで、青も煙るように淡かった。  何より、空を遮るものがない。何しろここは、海のど真ん中である。遠く低いところに陸地はあっても、大和のように空の半ばを塞ぐほどに険しい山々があるはずもない。  蒼穹という言葉の

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