見出し画像

いくさ場は譲らず! 受け継がれた上杉謙信の士風

戦国時代最強をうたわれ、「義」を重んじた武将、うえすぎけんしん
その士風を受け継いだ養子・上杉かげかつ
上杉家の父子についての短いコラムです。

勇猛にして潔癖な「義」の人
自らを軍神・しゃもんてんの化身になぞらえ、領土的野心を持たず、乱世に秩序をもたらすべく「じゃけんしょう」の義戦をひょうぼうし続けたといわれるえち(新潟県)の上杉謙信。

その軍団の無類の強さと、「筋」を通す生き方は、関東の雄・ほうじょううじやすたけしんげんのぶながひょうつねなく、頼むに足りぬ。謙信だけは請けあったら骨になっても義理を通す人物だ」(『名将言行録』)と評され、また終生のライバル武田信玄は、「あんな勇猛な男と合戦をしてはならぬ。謙信は頼むとさえいえば、いやとはいわぬ。頼むといって差しつかえない武将である。謙信にすがっていのくにを保つようにせよ」(『こうようぐんかん』)と、臨終間際に息子かつよりに語ったという。

さらに、信玄が没し、今こそ武田を倒す好機と上杉家臣が騒ぐと、謙信は「若い勝頼の代替わりを目がけて兵を出すのは、大人げない」と、却下した。敵の弱みにつけこむ卑怯な振る舞いを許さなかったのである。

こうした謙信の勇猛にして潔癖な「士風」を継承したのが、後継者の上杉景勝であった。

上杉景勝の甲冑(レプリカ)

謙信公以来の武威、いまだ衰えず
せきはら合戦から14年後のけいちょう19年(1614)、謙信以来の「毘」の軍旗が再び戦場に立つ。大坂冬の陣である。

11月26日ふつぎょう、景勝、しっせいなおかねつぐ主従は5,000の兵をひきいて、大坂城の東方、大和やまと川のしぎづつみを守る大坂方2,000余を攻撃。さきすみ大炊おおいのすけ、二の手のやす上総かずさのすけ、三の手のすいばら常陸ひたちのすけらの猛攻で、激戦の末に敵将4人を含む数百人を討ち取った。

奮闘する上杉軍の死傷者をづかい、幕府軍主将のとくがわいえやすは、後陣に控えるほりただはるの軍と交代するよう景勝に使者を送るが、上杉軍は退かない。家康が再度使者を寄越すと、景勝はふんぎょうそうでこう言った。

じょうにてもまかり成らずそうろうきゅうせんの家に生まれ、先陣を争う時は、一寸増しとう事、今朝より粉骨を尽くし取敷き候いくさを、他人に渡し候わんや、存じ寄らず」(『大坂じんおぼえがき』)。

この時、本陣の景勝は青竹を手にしょうに腰掛けて城の方角をにらみつけ、背後には黒地に日の丸の「てんはた」と「毘」の軍旗が掲げられていた。周囲を守るうままわり300は森のように静まり、その威容たるやまさに生前の謙信をほう彿ふつとさせた。

やがて上杉軍は、堀尾、ながしげの軍とともに鴫野の敵を退却させ、さらにいまふくで苦戦していたたけよしのぶ軍の要請で救援に向かい、こちらにも勝利をもたらす。そのきわった活躍ぶりに「謙信公以来の弓矢の勢い、いまだ衰えず」と、諸将は感嘆したという。

戦後、景勝の臣・杉原常陸介が家康より感状を贈られ、奮闘をねぎらわれた際、「先公(謙信)のもとでの激戦に比べれば、この度のいくさなど子供の遊びのようなもの」と答えた。謙信以来のしゅうそうれつじつたる士風は、脈々と生きていたのである。

*********************************************************************************

以前書いた上杉家の士風に関するコラムです。『名将言行録』『甲陽軍鑑』『大坂御陣覚書』はいずれも江戸時代のへんさんぶつですので、事実としてそのままみにするわけにはいきませんが、謙信や景勝の人柄は伝わってきます。

上杉謙信は戦国武将としては特異な人物で、天才的な戦術家でありながら、乱世に秩序をもたらすことを己の使命とし、敵からも畏敬されました。また軍神・毘沙門天にし、生涯妻帯しなかったことから、実子がなく、景勝は養子(おいにあたる)です。

なお謙信はてんしょう6年(1578)に病没しており、大坂冬の陣は没後36年のことでした。


いいなと思ったら応援しよう!

Saburo(辻 明人)
いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。