メルヘンでファンタジーな「どうする家康」
以下、敬称略
「人ではありませぬ、大権現!」
驚きました!
なんと!老僧は南光坊天海で、演じているのは小栗旬!
特殊メイクが凄すぎてわからんわ💦
おそらく昨年の「鎌倉殿…」のお返し出場で、最終回には何らかのカタチで登場するとは想像できたのですが、まさかここですかっ!!
私が勝手に想像していたのは成長した家光役でした。
「我は生まれながらの将軍である」
このセリフを明言するワンカットがあるのではないかと期待を寄せていたのですが…
というのも、このセリフこそが徳川の世を盤石にし、平和な世が訪れたことの証明になるのではないか?
それがまさかの天海とは!
まぁ確かに天海は謎多き僧で、家康の死後も生き続け、1説には107歳の長寿だったといいます。
この1616年当時で80歳ぐらいではないかと推定されます。
誰かわからないぐらいの特殊メイクをしてまで老齢の役を小栗旬に与える必要はあったのかな💦
築山殿と信康
ところが、ストーリーはファンタジー的に急旋回しました。
急にかつての正室・築山殿(有村架純)と信康(細田佳央太)が笑いながら登場します。
出た!
私は呆気に取られて、思わず口に出してしまいした。
築山殿に始まり、築山殿で終わる。
そういうことなのですね💦
定説では、家康と不仲なのは築山殿だけではなく、嫡男の信康の方とも不仲で、二人が自害する原因となった武田との内通説も、家康との悪化した関係が原因だったはず。
思い起こせば今回の「どうする家康」は新説が盛りだくさんで、「え?」と驚くことが多く、今までとは違う”新しい大河”を目指していることが顕著でした。
賛否両論はあるでしょうが💦
築山殿がどのような人だったかはわからないけれど、今回の描き方はまったく新しい築山殿だったわけで、私自身も彼女に対しての認識が変わりました。
可能性はゼロではないから
今年の1月に度肝を抜く設定に驚いたことが懐かしいです。
豊臣方の最期
豊臣の最期は、過去にも何度も見てきたシーンですが、描き方はそれぞれ違いますね。
誰も見ていないのだからそれはそうかもしれませんが…
少なくとも茶々が大野治長(玉山鉄二)を介錯するかなぁ??
逆でしょう💦
立場的に考えても最後に残ったのは治長でしょう。
そこは茶々の気の強さを最後まで全面に出したかったのでしょうか。
◆何が何でも豊臣を滅ぼす
豊臣方びいきの見方をすれば、家康は理由はどうであれ豊臣を完全滅亡させる必要はあったわけです。
平和のためには無情にも鬼にもなると、キレイ事を言っていますが、実際は恭順の意を示していた豊臣を完膚なきまでに叩きのめしたのです。
それを単に正当化したに過ぎず、勝者だったからこその原因も手前勝手で都合よく言えます。
この時の所業は、この後260年以上経ったときの、薩長による「戊辰戦争」と同じで、徳川を崇拝していた会津藩にしっぺ返しが来ました。
そして徳川幕府もまた消滅するに至るのです。
この「何が何でも滅ぼす」という極端な思いがなければ、時代を変えることはできないのかもしれません。
そのためには、茶々や秀頼を含む豊臣家は存在してはならなかったのでしょう。
それにしても滅びゆく豊臣方をもう少し丁寧に描いてほしいものです。
家康が主役だから仕方ないのかな💦
真田信繁もちょっと執念深い異常者的に描いてなかったか。
そのあたりは大いに不満です。
◆千姫の生涯は幸せか不幸か?
家康にひれ伏して、秀頼と茶々の助命嘆願をした千姫。
彼女の願いは受け入れられず、それどころか父の秀忠から
「なぜ一緒に自刃しなかったか!」と激怒されたという逸話もあるほどです。
夫を亡くしたうえ、実父にも冷遇されて踏んだり蹴ったりという状態でした💦
秀忠の言葉はひどいですが、実は怒るのも当然でした。
千姫の助命嘆願は、豊臣方、大野治長らによる最後の策だとも言われているのです。
千姫の本当の気持ちまでは判り兼ねますが、少なくとも彼女の一途な思いを利用した豊臣方の作戦だったのでしょう。
その後の千姫は、戦後1年で本田忠勝(山田裕貴)の孫・忠刻に嫁ぎ、のちに姫路城に入るのですが、徳川家の姫が家臣の家に下るという事は異例なのですが、これもまた豊臣と政略結婚をさせてしまった後ろめたさで家康が敢えて勧めたらしい。
確かに忠刻との結婚生活は、とても充実した幸せを嚙み締めたものだったのですが、息子は夭折、夫は31歳で病没してしまい、その後は本多家を出て江戸城へと戻ると出家して「天樹院」と名乗り、70歳で波乱万丈の生涯を閉じました。
徳川・織田・浅井の戦国サラブレッドの血を受け継ぎ、「大阪城」と「姫路城」という、人もうらやむ天下の名城で過ごした千姫は安穏な生涯とは程遠く、じゅうぶん戦国の犠牲者だといえるのではないでしょうか。
家康最期の大仕事
家康の仕事は1615年の大坂夏の陣の勝利した時点で終わりではありません。
息を引き取る1616年4月までの約1年間で、その後の幕府存続において最も重要な大仕事を精力的にこなしています。
信長から貰った鯉の行方などどうでもいいから、こっちを描くべきではなかったか⁈
◆仕組み作り
・禁中並公家諸法度
公家との関係を明確に制定
・武家諸法度
諸大名を統制
・一国一城令
居城以外はすべて破却
これらをブレーンであるもう一人の僧・金地院崇伝とともに、細かく制定し、今後の徳川幕府の法律の基盤となりました。
考えてみたら臆病だから、こんなにも精力的に法律制定に取り組めたのかもしれません。
今川、武田、織田、豊臣など数々の武将家の没落を目の当たりに見てきただけに、「大坂の陣」で勝利しただけでは、とても安心できなかったのでしょう。
二度と徳川政権を覆せない”仕組み”を制定しないと、心から安心できなかったのだと、かれの人生から想像できます。
◆長子制度の確立
3代将軍となる家光には、とても利発な弟・忠長(国松)がいて、両親の秀忠とお江はこの次男を次期将軍にと画策したところ、家光の乳母・春日局(寺島しのぶ)が、現状を家康に直訴します。
それを受けた家康は、皆の目前で家光と忠長の扱いにはっきり差をつける態度を示し、「長子制度」を確立しました。
この時の家康の態度は、武家にありがちな兄弟同士で争うお家騒動の種を完全につぶして、その後の長期政権に繋げたのです。
すっかり省かれたけどね💦
春日局役が寺島しのぶだと知った時は、このエピソードにも触れると思っていたのですが、見事に肩透かしを食らいました。
これも「白うさぎ」の家康が、細心の思慮で念には念をおして盤石な体制の基盤を作り上げることができた理由の一つなのですが、残念です。
やはり、波乱万丈の人生経験の中で培った教訓を最大限に生かしたのは大きい。
秀吉も朝鮮出兵に固執してる間に、こういう事をすべきだったよ!
◆英雄の死はあまりにも孤独
忠誠を誓った直臣たちが次々とこの世を去り、最後は本多正信(松山ケンイチ)のみ。
本当の家康の姿を知る者は他には誰もおらず、ただ偉業を成した英雄として崇められ恐れられて、孤独な最晩年を迎えた描写は良かったと思います。
まだ皆が元気で周りに仕えていた若い時代との対比は、いかにも家康の人生を語るには相応しく、どこかもの悲しさも感じました。
繰り返しますが、
築山殿・信康登場と、鯉の下りは余計でしたが。
それにしても松淳の家康、最後はなかなかのものでした!
かなり美化されていたところは、主役なので大目にみるとしましょう。
◇◇◇
さて、来年の「光る君へ」はどうでしょうね。
私は紫式部の生涯までは知りませんし、「源氏物語」もまともに読んでいません。
ですからかなり新鮮な目で視聴できるはずです。
「どうする…」のように軽快なツッコミはできないかもしれませんが、感想記事は書くつもりですので来年もまたよろしくお願いします。
※トップ画像は大阪城天守(2014年11月撮影)