最後に天下を取るのはワシじゃ(2/2)
武田家の強さは徳川家が継いだ
1575年に長篠の戦いで信長と同盟を組み、騎馬戦を得意とする武田軍を、最新兵器の鉄砲で打ち破ります。この当時の鉄砲には殺傷能力はなく、馬を驚かせることしかできず、最後は矢で仕留めていました。戦国時代の鉄砲は今のエアーガンぐらいの威力しかなかったかもしれません。信玄の死後、武田家は揺れに揺れていましたが、長篠の戦いで敗れた武田勝頼の求心力はさらに落ち、武田家は衰退の一途をたどっていきました。かつて、家康も信長もおそれおののいた武田家の姿はそこにはもうありませんでした。そして、1582年、天目山の戦いで勝頼が自害して武田家が滅亡してから、武田家の遺臣を信長は残党狩りをし、家康は信長にバレないように行くあてを失った彼らを匿っていました。家康にとって幸運だったのが、同年、武田家の残党狩りをしていた信長が本能寺の変の自害したことにより、武田家の遺臣を召し抱えていることが信長にバレる心配がなくなりました。
家康が武田家の遺臣の召し抱えた一番の理由は自分を完膚なきまでに叩きのめした相手であり、学ぶべきことが多い相手だと考えていたからです。彼らは好待遇で家康に召し抱えられました。家康がその時に自分が弱いことを認め、落ち目の武田家の残党を殲滅させずに召し抱えたことが信長との違いです。信長、秀吉、家康の中で、家康が江戸幕府を開き、260年に及ぶ天下泰平の時代を築けたのはこの度量の大きさが秀でていたからではないかと思います。
家康は信玄の得意としていた戦法や国づくりを遺臣から学びました。信長の死後、織田家の跡目争いが発展した小牧長久手の戦いでは、秀吉と家康が戦い、家康が優勢でしたが、秀吉が和睦を申し出て、それに家康は合意しました。家康は三方ヶ原の戦いを機に負け戦をほとんどなくなりました。小牧長久手の戦いでは秀吉が劣勢でしたが、絶妙なタイミングで和睦を申し出るところが最初に天下統一を果たすだけの器だと思います。秀吉の交渉能力は天才的でした。
関ヶ原の戦いを1日で終わらすことができたのは小早川秀秋の寝返りによるものであったと言われていますが、その寝返りを促したのも信玄の戦い方を参考にしたと言われています。西軍に山から奇襲を仕掛けることで、西軍をなし崩していったと言われています。関ヶ原の戦いは石田三成と家康の戦いですが、西軍の総大将は毛利輝元であり、豊臣家の一家臣では求心力がないことと賤ケ岳七本槍の加藤清正、福島正則らと仲が悪かったこともあり、光成が総大将になれなかったと言われています。関ヶ原の戦い後、総大将の毛利輝元は減封であったのに対し、光成は処刑されています。
家康は信玄同様にインフラ整備に力を入れました。信玄は山梨県の釜無川に信玄堤を造り、川の氾濫による被害を減らしました。家康は江戸の町を整備し、すでにあった江戸城を改築しました。これが今の東京の街の始まりになります。沼地であった江戸を埋め立て、人が住めるようにしました。江戸川や荒川の洪水から街を守るように整備しました。この時の整備に信玄堤を参考にしたと言われています。
天目山の戦いで武田家は滅亡しましたが、武田家の考え方を家康が保護し、尊重した結果、家康は天下を取り、江戸幕府を築くことができました。そして、そのインフラ整備は江戸の町を綺麗にしただけでなく、後の首都となる土台を形成したと言っても過言ではありません。家康が江戸の町を作ったと言われますが、その根底には信玄の考えが反映されています。
忌々しいあの記憶
関ヶ原の戦いでも大勝利を収めたと思われるでしょうが、裏で大変なことが起こっていました。息子の徳川秀忠が信州の上田城で真田昌幸に負けたのです。その前にも家康が上田に攻めた時も昌幸に負けています。実は家康にとって真田家は非常に怖い存在でした。真田家は武田家の重臣中の重臣で、天目山の戦い後、家康に召し抱えられることはありませんでした。親子そろって昌幸に負けているのです。信玄が存命の間に昌幸は信玄とともに戦場へ出ていました三方ヶ原の戦いにも参戦していましたが、家康軍を追いかけることには反対していたそうです。昌幸は関ヶ原の戦い後、和歌山県の九度山に蟄居させられ、1611年、九度山で病死します。家康からすれば、あの三方ヶ原の戦いで屈辱的な敗北を喫した武田軍の重臣であり、最悪の相手です。武田家の遺臣を召し抱えたものの重臣となれば、彼らの知識量とは比になりませんし、彼ら以上に武田家について詳しい人物です。徳川軍が武田家の戦法を模倣していることは昌幸もお見通しで、これまでの戦い方で通用する相手でなければ、対策もしています。家康は昌幸の名を聞けば、手が震えるほど怖がっていたと言われています。それほど、武田家と言い、真田家は恐ろしい存在でした。
家康最後の戦いとなる大坂の陣で、豊臣方では真田幸村が家康と戦います。豊臣方の総大将は豊臣秀頼ですが、実質的な指揮は幸村が執っていました。大坂の陣で幸村が指揮を執っていることは家康には恐怖でしかありません。三方ヶ原での忌々しい記憶や上田の敗戦が蘇っていたはずです。幸いなことに徳川方に関ヶ原の戦いから豊臣家の重臣であった福島正則らだけでなく、秀吉の正室・ねねまでも付いていました。秀吉の側室・淀とねねの仲が悪かったと言われています。
大坂冬の陣の前に幸村は鉄壁の防御を誇っていた大坂城の南側が弱点であることに気付き、真田丸を築き、徳川軍を迎え撃ちました。冬の陣では幸村の奮闘もあり、大坂城を落城させることができませんでした。家康は淀に大坂城の外堀を埋めることを条件に、停戦調停を申し入れました。豊臣方の武将は大坂城が丸腰になると反対しましたが、淀はそれを受け入れました。そこのことを家康が知っていたかはよくわかりませんが、このとき、淀は病んでいたのではないかと言われ、正常な判断ができていなかったと言われています。これが豊臣家の致命傷となり、大阪夏の陣で、幸村も討たれ、淀と秀頼が自害し、豊臣家は滅亡します。大坂の陣を最後に本当の天下泰平の世が訪れます。最後の最後に恐れていた真田家にやっと勝つことができました。真田家は大坂城の夏の陣で滅亡はしていません。実は幸村の兄・真田信之は関ヶ原の戦いのときに徳川方として参戦し、昌幸が、結果がどう転んでも真田家が残るようにしていたのです。昌幸と幸村は豊臣方につき、最後まで戦い抜きました。
そして、その翌年、駿府城でこの世を去ります。江戸幕府は1603年に開かれ、1868年に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還をするまで続く超長期政権が幕開けとなります。
ちなみに、真田幸村の本名は真田信繁ですが、江戸時代にこの名前を口にしてはいけないというルールがあり、大坂の陣をモデルにした物語を作る時に真田幸村という名前が付けられたと言われています。家康にとって真田家は武田家と同じぐらい怖い存在であったことがこのことからもうかがえます。
最後に
「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」と言われるように、他の2人のような苦労をしてないように言われますが、実はかなりの苦労人で、命を何度か落としかけています。家康はほとんど負け知らずと言われますが、数少ない敗戦は家康にトラウマを与えるほどのものでありました。その敗戦からしっかりと学び、負けた相手から得られることはないかと思案し、武田家の遺臣を好待遇で召し抱えました。人は失敗から何を学ぶかが重要と言われるように、失敗に必ず原因があります。戦国時代では敗戦が失敗の最たるものでした。そこから何を教訓にしてどう戦うかがその時代で生き残るポイントだったと言えます。ビジネス書で似たようなことが書かれていますが、これは昔から言われていることであると歴史が証明しています。家康が天下を取れたのは粘り強い精神力と実行力であったと言えます。大河ドラマで家康を見ながら、そういったことを考えてみませんか?
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