妻たちを見ると家康の狙いがわかる?!
英雄色を好む
と言うけれど、戦国の三英傑の正室や愛妾の数を見ると、うなずけるものがあります。
織田信長は妻9人(子27人)、豊臣秀吉20人(子4人)、
そして徳川家康21人(子16人)。
あくまでも確認できるだけでこれだけいるのですが、実際にはもっとたくさんの側室や子供がいた可能性もあります。
宣教師のルイスフロイスは、秀吉の愛妾は300人いたなどと言っているぐらいなので、公にされていない側室の方が多かったのでしょう。
当時は子を成すことがお家存続の重要な「仕事」でしたので、側室を持つことは当たり前でした。
ですから、
英雄に色は必須
だったわけです。
今回は家康の妻たちをピックアップしてみたいと思います。
最初に言っておきますが、基本的に正室(本妻)と側室との立場は家中での地位には格差がありました。
側室に求められることは子供を産むことで、その人数にも制限がないのに対して、正室はただ一人であり、子を産むだけでなく、数多いる側室たちをまとめ、家内を執り仕切るリーダーとしての手腕も必要でした。
兄に利用された「朝日姫」
「そなたはわしの妻じゃ」
胸中の不安を隠し、健気に明るくふるまう朝日姫を讃え、深々と礼をした後、言い放ったセリフに思わず大泣きする朝日。
それもそのはず、輿入れ後は「駿河御前」とも呼ばれた彼女は本当に可哀そうなのです。
徳川家中が歓迎??
家康の母・於大の方や側室・お愛の方が、朝日の気持ちに寄り添ってとても優しく接するのですが、これはないのでは?
ていうか、於大はいつまで登場するのか💧
全く知らない家へひとりで嫁いできた朝日なので、徳川の奥がドラマ通りの理解ある接し方だったなら、まだ救われたでしょう。
しかし実際はこんなにも優しくされたとは思いにくい。
朝日の事を訝しい目で見、眉間にしわを寄せていたのでないでしょうか。
またここでも徳川を美化している💦
たった4年間の正室の座
家康を上洛させたい秀吉が、すでに佐治日向守という夫がいた妹・朝日を無理やり離縁させ、正室不在の家康に押し付けてきました。
元夫は、行方知らずとも自殺したとも言われています。
朝日は遠く離れた知らない人間だらけの土地に再嫁させられ、元が尾張の田舎百姓だった彼女は、さぞかし周りに気圧されて精神的不安は大きく、心が破裂しそうなぐらい辛かったはずです。
その心労が祟ったのか、彼女は1586年に嫁いで、たったの4年でこの世を去るのです。
体調を崩してからは静養のため、秀吉の聚楽第との間を往復していましたが、47歳の時、聚楽第で最期を迎えました。
私が印象強く残る朝日は、1981年「おんな太閤記」の泉ピン子さんです。
未だにこのイメージが強いのですが、今回の山田真歩さんの笑い泣きの演技にも驚かされました。
朝日は、相手に望まれない正室として嫁ぎ、誰一人味方のいない中で、どのような日々を送ったのかと思うと、なんとも心が痛みます。
家康の言葉は本心かも
朝日が没した後の家康の行動を見ると、冒頭の言葉は本心だったのかもしれません。
東福寺に葬ったあと、寺内の塔頭として朝日姫のために南明院を建立します。
そして彼女の肖像画も当院に収め、以後は徳川将軍家の菩提寺としているのです。
さらに駿府にも朝日の墓を建ているのを見ると、家康は朝日を徳川家の一員として、また正室として認めていたことになります。
これは朝日の辛すぎる苦悩を理解して胸を痛めていたことに他なりません。
家康は後家好き、才女好き
しっかり跡継ぎを産んだ「お愛の方」
お愛の方の前夫は西郷義勝でしたが、1男1女をもうけて戦死。
未亡人となっていたところ、家康に見初められて側室に上がったと言います。
後に西郷局と言われたお愛(広瀬アリス)は、慈悲深く慈善活動に積極的な上、近視になるほどの読書好きのおかげで博識でもあり、周りの多くから慕われ、朝日姫が嫁いでるまでは、事実上の正室でした。
2代将軍となる秀忠と忠吉という2人の男児を産むも、秀忠10歳の時に、28歳で没してしまいます。
しかしその後、お愛の産んだ秀忠の5女・和子が第108代後水尾天皇の皇后となり、徳川の血が皇族へと繋がる事にもなりました。
おっちょこちょいに描かれていますが、
お愛は良い仕事しましたねぇ。
↓こちらで少し触れました。
大坂の陣での交渉役「阿茶局」
阿茶局(松本若菜)がそろそろ登場してもいいのですが、まだチラリとも出てきませんね。
彼女こそ才色兼備。
家康に最も愛されて重用された側室です。
徳川の外交役を務めた阿茶局は、あの豊臣との「大坂の陣」の事の起こりから一連の交渉役を担っていました。
彼女もまた19歳で神尾忠重に嫁ぎ一男一女をもうけるも、夫とは死別した未亡人でした。
と、ここまでは前述のお愛の方と同じく、出産経験のある未亡人だという共通項があります。
阿茶局が優れていたのは何と言っても政治力でした。
徳川の代表として外交をこなすだけの「才略」と「才覚」を持ち合わせていました。
なかなか女性の立場で、しかも側室が前に出るなど、頭の固い領主なら、絶対にさせないでしょう。
しかし、その才を見出し、引き出した家康は、やはり慧眼の持ち主だったと言えます。
その上、武芸と馬術に優れていたようで、戦場にも馬に乗って同行していたそうです。
家康にとって、美しいだけのお飾りの側室ではなく、男並みの戦術・知略をもつ阿茶局はドストライクの伴侶でした。
家康の死後も遺言通り出家せず、2代・秀忠を補佐し、上記の5女・和子の入内には亡きお愛の方の代わりに母役を務め、その後も幕府と朝廷との政策に外交手腕を発揮し続けるのです。
秀忠が没してやっと出家し、3代・家光にも丁重な扱いを受け、1637年に83歳で没しました。
2016年の大河「真田丸」での斉藤由貴さんの熱演は記憶に新しいところで、その策士ぶりは見事でした。
大坂方から見たら憎たらしいほど💦
優れた交渉力を見せながらも陰では家康(内野聖陽)を叱咤していました(笑)
さて今回の松本若菜の阿茶局はどんな女性像となるのか?
まだ大坂の陣は先の話ですが楽しみです。
側室を上手く使いこなした家康
正室は政略結婚なので自分で選ぶことはほぼありませんが、側室こそが家康自身の好みで選んだものです。
しかし、後家・才女好きかと思いきや、すべてがそうではありませんでした。
特に晩年に、女性観は大きく変わってきたようです。
ロリコンの一面もあったかも
上記の過去記事で少し触れましたが、
「佐渡殿、雁殿、お六殿」
家康の三大好物を示したものです
孫に匹敵するような年齢差のお六は、先に家康の側室ととなった「お梶の方」の部屋子(雑用係)だったのを、その美しさゆえに家康が見初めたと言います。
そうは言っても、孫のような女の子をそんな目で見るなんて、変態?
そもそもお六の主人だったお梶の方も家康とは36歳もの差がありました。
それだけはありません。
その他の側室を見ても、お夏は39歳差、お梅は44歳差💦
還暦を迎えても、なおも元気な家康でした。
側室のタイプは両極端
これらを見ると、家康の女性観は真っ二つに分かれるようです。
①人生経験豊富な才女
子を産んだ経験のある健康さと、英知に長けた者
②ウブで可愛い癒し系女子
若くて可愛いく、面白い会話ができればいいい?
これら二つに分けてみると、まだまだ油断できない”弱い時代”は必然的に①だったのですが、自身の力が付いてくると、①と②を併用しているようです。
特に②は、今も変わらない男性特有の感覚だと言えるのでは?
自分の好みと言うよりは、自分が置かれた状況に応じて必要なタイプを選んでいたようです。
秀吉とは大きく違う女性観
信長や秀吉の失敗を見て戦国を生き抜き、260年も続く徳川政権の基礎を築いた裏には、このような女たちを「戦略的実利」と「精神的やすらぎ」とに、上手く使い分けたことは大きいのではないでしょうか。
それとは逆に秀吉は、自身のコンプレックスから高貴さと外見を側室に求め、ある意味見境なく選んだのとは大きく違います。
晩年こそ、秀吉と同じような女性観となったものの、それは性癖というより、自分の置かれた状態によるもののように思います。
戦いの陰に女あり
今後の豊臣方との対決には、家康の側室の使い分けにも注目です。
悔しいけれど、秀吉は側室選びの女性観から見ても負けていたのかもしれません。
今度の10日はラグビーワールドカップで放送休止ですが、次回はいよいよ石田三成との運命の出会いがありそうです。
【参考文献】
・戦国ヒストリー
・和楽
・サライ
・刀剣ワールド
・愛知県岡崎市公式観光サイト
※トップ画像は「岡崎城」ACより