曽水に生きて 成瀬正成 下
16 大坂の役 冬の陣
大坂の役が始まる前の10月、江戸より駿府にいた義利公と頼将公に出陣の命がくだった。これにより、義利公は名古屋に入部。もちろん小吉も随行した。義利公にとって、今回の戦は初陣であった。だから小吉は小吉なりに、気を配り、準備に余念がなかった。月内に義利公は15,000の軍を率いて、大坂の堺に向かったが、既に堺の奉行所は、既に豊臣側は赤座直規、松島重利らが3,000の兵が取り囲んでおり、堺奉行の柴田正規は、既に岸和田に退いた後だった。そうした報告を受け、義利公は京の二条城に入り、家康公の到着を待った。家康公は義利公に遅れること4日で二条城に着かれた。
11月に入り、徳川軍の評議は本格的なものとなっていた。その場には先日まで、豊臣方の使者として活動し、鐘銘事件の弁明に来ていた片桐且元が、大坂周辺の地図を持って、参加をしていた。且元は加藤清正や福島正則と同じく、賤ヶ岳7本槍の1人で、豊臣家の重鎮であったが、秀頼の生母である淀君と対立。結局、弟の貞隆と共に大坂城を退却。今回の戦から、徳川軍に参加することになった。小吉は、いままでこの片桐且元と、話をしたことはなかった。それは片桐且元が、一緒に気さくに話が出来るような人ではなかったからだ。しかしこの日は、且元の方から声がかかったのだ。且元は「そなたのことは、亡き太閤殿下から武者揃えの話を聞いていて、1度会ってみたいと思っていた」と言い、機嫌良さげに「時が落ち着いたら、酒を一献かたむけながら、話をしたいものだ」と言い残して、その場を後にした。その後、片桐且元とは不思議な縁があり、次男之成の後室は、且元の娘であった。
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