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【日本史】秀吉亡きあとの淀殿の憂鬱を妄想してみた

秀吉亡き後の豊臣政権を、
すごくドライに見ている淀殿の視点から書いたら面白そう・エモいんじゃないか?というお話です。

■秀吉亡き後の豊臣の行方は?

「秀吉の死後、家康が豊臣政権を乗っ取った」という見方が一般的です。

けれど、じゃあそもそも家康以外の豊臣政権のメンバーって、頼りになったかというと、結構怪しいんですよね…。

■豊臣が頼れる大老・奉行ってそもそも居たのか?

五大老・五奉行のメンツについての、
泉舟の主観的イメージはこんな感じです↓

家康:豊臣と親戚だが権力大き過ぎ

前田:人望あるけどいつ死ぬか分からん

毛利:何考えてるか分からん

上杉:空気読めない

宇喜多:ボンボン
 
石田:やる気あるけど同僚と内戦レベルで揉めてる

その他奉行衆:足の引っ張り合い…etc.

実際、家康以外の五大老五奉行も結構やらかしてるんですよね…。

毛利→関ヶ原では本戦そっちのけで、
ノリノリで瀬戸内各地に兵を派遣して
利権確保に動いたり、けっこう野心家。

上杉→関ヶ原の発端はそもそもコイツが隣国の堀家と揉めたから。

宇喜多→セレブ生活が財政を圧迫し、お家騒動に…。

奉行ズ→前田利家死後、利家の息子の失脚は、どうも奉行ズの陰謀の気配が…

関ヶ原の戦い前後の淀殿ら豊臣家の去就はどうもはっきりしません。

が、上に書いたような視点で淀殿が大老・奉行たちを見ていたとしたら、

正直なところ「豊臣家の為に戦います!」とか言われても「え、こいつらのどっちかに全賭けしろとか(笑)」
という感じだったんじゃないでしょうか。

■関ヶ原後の豊臣家


関ヶ原の戦い後、豊臣家は政権運営能力を失っていく…

これに関ヶ原後は

愛してはいるけど、夫・秀吉の半分も乱世の才は無い息子(秀頼)

ボンクラと名高い従兄(織田信雄)

頑張ってくれてるけど、凄く才能がある訳じゃない幼馴染(大野治長)

いい人だけど隠居気分の北の大政所(秀吉正妻)

徳川から来たお嬢様の千姫

が加わる訳です…。

このメンツで頑張れはきつい。

一応、叩き上げの家老・片桐且元も居るけれど、中間管理職でしんどそう。

大坂の陣直前には、徳川に対抗する武力として牢人達を雇います。

が、いずれも一癖も二癖もある人達ばかり。

後藤又兵衛は、前の職場で上司と揉めて転職して来た、ちょっと雇うのに勇気要るタイプですし、

真田幸村は、補給や軍の統率ができるか怪しいのに、徳川との京都での決戦を唱えていたあたり
「牢人達を暴れさせて、その間に死に花咲かせてやるぜ!」派だったフシも否めない…。

この人達、どうやってまとめてたんですかね。

■「傾城」淀殿はホントに高飛車な美人だったのか?


よく漫画や小説などでは高飛車なチョーシに乗った美人で描かれる淀殿。

そうではないキャラとして見てみると、
面白いかもしれません。

そもそも彼女は、チョーシに乗れるような心境だったのでしょうか?

淀殿の父は、近江の戦国大名:浅井長政、母は信長の妹:お市の方です。

父長政は信長の義弟になったのに、
結局、叔父・信長によって滅ぼされ、

その信長も天下統一を前に、明智光秀の謀反でジ・エンド。

母の再婚先の柴田勝家は、織田家の家老まで務めたものの、結局、秀吉に滅ぼされてしまいます。

柴田勝家の滅亡の際は、彼の部下や身内が雪崩をうって寝返る様を間近で見てるんですよね。

秀吉が天下を取ったからって、
素直に豊臣の繁栄が続くと信じられたのでしょうか。

秀吉が死んだ時点で「あ、これ詰んだ」と思いながら生きてる淀殿とかエモい!

■淀殿と家康 近かったかもしれない二人の視点


衰退する豊臣家に家康は何を想ったのか


秀吉亡き後の豊臣政権の「内向き」のトップが淀殿なら、「外向き」のトップは家康です。

当時の豊臣政権の状況を俯瞰して見れていたのが、家康と淀殿だけだったとしたら、これもエモいです。

大老・奉行のメンツ的に、家康も「野心とか以前に、秀吉体制の維持は無理!」と思ってたんじゃないでしょうか。

関ヶ原後に豊臣家を乗っ取る形になった家康ですが、けっこう豊臣に配慮しているようにも見えます。

最後は大坂の陣で豊臣家を滅ぼす事になりますが、
豊臣家が大人しく頭を下げていれば、
公家か一大名としては残れたのでは?
という話はよくあります。

大坂の陣で家康が豊臣家に出した条件に
「淀殿が人質として江戸に来ること」がありましたが、

これが実は家康から淀殿への救いの手だったとしたら…

その意図を察しつつも城を出れない淀殿。

太閤亡き後、同じ視点で苦労した同志を
遂に救えなかった家康。

そういう風に二人を見てみるのも、
面白いかもしれません。